20230716 東淀川教会 宣教要旨「親(アッバ)に対する子の祈り」
聖書箇所
詩編90編1-17
わが主よ、あなたは代々に我らの住まい。山々がまだ生まれずあなたが地と世界を生み出される前から いにしえからとこしえまであなたは神。「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い 人を塵に帰らせる。まことに、あなたの目には千年といえど過ぎ去った一日のよう。夜回りの一時にすぎない。あなたは人を死の眠りに落とされる。人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り、なお萌え出づるが夕べにはしおれ、枯れ果てる。あなたの怒りに私たちは消え入り あなたの憤りに恐れおののく。
あなたは私たちの過ちを御前に 隠れた行いを御顔の光にあらわにされる。私たちの日々はあなたの激しい怒りに ことごとく過ぎ去り 私たちは吐息のように年月を終える。私たちのよわいは七十年 健やかであっても八十年。誇れるものは労苦と災い。瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。あなたの怒りの力を誰が知りえよう。あなたを畏れるほどに その激しい怒りを知っていようか。残りの日々を数えるすべを教え 知恵ある心を私たちに与えてください。
主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。あなたの僕らを憐れんでください。朝には、あなたの慈しみに満たされ すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。あなたが私たちを苦しめた日々と 私たちが災いを見た歳月に応じて私たちを喜ばせてください。あなたの業があなたの僕らに 輝きがその子らに現れますように。我らの神、わが主の麗しさが 私たちの上にありますように。私たちの手の働きを 私たちの上に確かなものにしてください。私たちの手の働きを力あるものにしてください。
マタイ5章9節
平和を創る人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
マルコ14章36節
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
宣教要旨「親(アッバ)に対する子の祈り」
「神は愛」「神は光」「神は言葉」などは、特定の言葉・概念を用いた、人間の側の“願望”を基にした「神」の定義であり、主観的な神と人との関係、信仰のあり方を表そうとした「言葉」です。ヘレニズムが生み出した「知的理解」です。この「知的理解」に対して、イスラエルの本来的理解である「主意的理解」に戻ってみたい。
創造神話を含むイスラエル人の信仰は、万物の創造神である、親である神と子なる人間というシンプルな関係です。親なる神は命を吹き込んだ人を人の子として世に送り、とき到て、体を塵(土)に戻し、神の子らを親なる神のもとに帰らせる、という。“神与え神奪う”という、神と人との関係は、神の主権にのみあり、人は単に“生かされているだけ”の、自分の生命を一秒たりとも伸ばすこともできない、圧倒的な受動的関係でしかない。しかし生かされているに過ぎない、受動的であると同時に、親としての守りと導きを感謝しつつ導きを求め、対話(祈り)を続ける親子関係である。それがイエスも示した“アッバ”の祈りです。
子が願う、親への祈りだけでなく、子の思いを超えた親の思いがあり、子が望まない罰も試練もあることを前提に、「御心のままに」との、全てを委ねる祈りが続きます。これがヘブライズム、遊牧民、元々国に守られようとせず、神とともに歩む民の生命観だと思います。生きている間に出会った苦難、受難の意味も、受け入れ難い主の導きも、全てが明らかになる、という希望を最も表しているのが「ヨブ記」だと思います。
モーセの十戒における“汝の父母を敬え”の本来の意味は、“汝の父母である神を敬え”だったのではないか、と感じるのです。それを指し示しているのが、イエスの「アッバ」の祈りだと思うのです。