20230820 東淀川教会礼拝 宣教要旨「イエスに押し出される」マルコ福音書6章45−52節
聖書箇所
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。
そして、群衆と別れると、祈るために山へ行かれた。
夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話をし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである。
宣教要旨「イエスに押し出される」
五つのパンと二匹の魚を分かち合うと5千人のお腹が満たされ、パンと魚の残りが12の籠一杯になった大事件に続く出来事です。
イエスの仲間たちはそこで何が起こったのか、神の御手がどう動いたか、集まっていた多くの難民たちがどう動いたのか、全身で体験したはずです。
新たな働きを、過酷な現実が横たわる向こう岸の世界へ、依存的な仲間たちをイエスは舟で先に送り出そうとしいていた。イエスは自分がリーダーとなって、イエスの思い通りに仲間たちが働くことを求めたのではなく、それぞれがイエスに依存的にならず、自立的に動き出すことを求めていたのでしょう。だからわたしは「弟子たち」と呼ぶことに躊躇があります。イエス自身が「友」と呼んでいるわけですから。
“逆風で身動きが取れなくなっていた”とは、依存したいリーダーがいないことで、パニックを起こしかけていた仲間たちの姿を現しています。闇の中、朝方まで途方に暮れていたのでしょう。日が昇り始めるとき、イエスが船に近づき、通り過ぎようとします。
通り過ぎた、つまり、神の右手の役割を担うために、たったひとりででも向こう岸の現実へ向かおうとします。
助けを求めるペテロたち、彼らに「恐れることはない。「数時間前には、神が奇跡を起こしてくださったではないか。神があなた方とともにいるし、」わたしもあなたがたと共にいる」と声をかけたのでしょう。イエスも船に乗り込みます。夜が明けました。
人は孤独に弱く、動物の中でも依存心の強い生き物です。神よりも、より強い人、リーダーに依存しがちです。そんな彼らを押し出そうとするイエスに、子どもを送り出そうとする親のような愛情と厳しさと信頼が感じられます。
現代社会は、親が子を巣穴から追い出す、ヒナを木の上の巣から無理矢理にでも飛び立たせるような、配慮とパワーが持てなくなっていると自分自身のことも含めて感じます。逆に、親が子に依存し、子を親の思い通りにすることが子に対する愛情だと思い込んでいる親も多いのです。子の押し出し方がわからなくなっている多くの親はもっと動物に学ぶべきなのでしょう。いや、何よりもイエスに学びたい。
/先週の出来事
マスコミに対し、明らかな「汚染水」を「処理水」と言い換えさせ、「もはや最終段階。漁民などの意見を、ポーズとして聞くだけは聞いてあげるが、国の最高権力者たる首相のわたしがまもなく最終判断をし海洋放出を決定しますよ」と、いわば日本刀を振りかざし“大上段のかまえ”。自分を将軍様だと勘違いしているのだろう。日本語で言うならこれぞ“傲慢の極み”。世も末である。