20231022 東淀川教会礼拝 宣教要旨「豚への偏見差別」レビ記11:7 箴言11:22 マタイ福音書8:29-34
本日の聖書箇所
レビ記11章 7節
豚、これはひづめが割れて、完全に分かれて
いるが、反芻しないので、あなたがたには汚れた
ものである。
箴言11章 22節
豚の鼻に金の輪 美しいが聡明さに欠ける女。
マタイによる福音書8章 29-34節
突然、彼らは叫んだ。「神の子、構わないでくれ。
まだ、その時ではないのにここに来て、我々を
苦しめるのか。」ところで、そこからずっと離れた
所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を
追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と
願った。イエスが、「行け」と言われると、
悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。
すると、豚の群れはみな崖を下って湖に
なだれ込み、水に溺れて死んだ。豚飼いたちは
逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた
者たちのことなど一切を知らせた。すると、町中の
者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに
会うと、その地方から出て行ってもらいたいと
言った。
宣教要旨「豚への偏見差別」
※蹄が分かれて反芻するものは浄い→牛、羊、山羊、など。
※浄くないので食用不可→豚、らくだ、野うさぎ、岩狸など。
そもそもモーセの十戒には食物タブーはない。後に付加されたもの。
浄い、浄くないを分けるための基準として、蹄が割れているかどうか、食べたものを反芻するかどうか、鱗があるかどうか等を基準とすることに、医学的根拠も神学的根拠も合理的根拠も何もない。食物タブーを設定すること自体が目的だった。禁止項目・タブーを避けることによって心身の清らかさ、選ばれた神の民としての尊厳・プライドを保つことそれ自体が重要だった。アブラハム時代からあった遊牧生活時代に一緒に移動しつつ食べていた動物は浄いのであり、移動に適さない、食べてこなかった動物を浄くないものとした。律法、法として基準を明記しなければならず、蹄、反芻を無理矢理こじつけた。いったんタブーが成立すれば、自らの清らかさを保つ手段として固定され、初期キリスト教にもイスラム教にも伝承された。
豚を汚れ(穢れ)た動物と見做す、元々の感情的な根拠が箴言にも現れている。人間や動物の糞まで食べる。何でもがっついて食べてぶくぶく太る。列を作って行動させることができない。食べることに貪欲な卑しい人間の譬喩として用いられた。
今日で言う「統合失調症」は古代からあった。分裂病とか、悪魔や天狗が憑いたとか、狐が憑いたとか。「穢れた霊」が外側から穢れた動物や虫などを通して人の中に入り込み病を起こすと思われていた。それを叱りつけて元のところに返す、戻す、という行為はアフリカ、南米にかかわらず世界各地の呪術に見られる治療行為。日本でもかつて“キレて暴れる”人(統合失調状態の人)に憑いている“狐さん”に対して、祈祷師が憑きもの落としをして、憑いている狐をお山に返す、とか、数千枚の護摩行や祈祷の中で語りかけ、帰るべき所に帰ってもらうことで、もとの人格が戻ってくる、などの治療があった。それと同様の、悪霊や穢れた霊の帰る場所を定めて追放する民間伝承の治療は、日本各地にもいっぱいあった。その“穢れ”の役割を押しつけられた動物が、豚だったのでしょう。創世記では、蛇の誘惑によって悪霊がこの世に入り込み人間を堕落させたという神話がある。キリスト教世界の悪魔払い・エクソシストのわざの中で、悪霊が帰るべき場所として蛇が用いられた。
イエスの用いた悪霊払いのわざは、豚は穢れや悪霊の住み処、精神病は悪霊が憑いた結果、などの民間伝承を逆に利用した治療だったと思われる。
豚に対する差別偏見には根拠がない、といくら頭で理解しても、でも数千年も続く食物タブー、豚差別はとっても頑固なもので、頭で考えて、学んで、話し合って「修正」「調整」できるような、「やわ」なものではなくなっている。
イスラエルとパレスチナの、相互的な憎悪関係、双方を悪魔化し合う関係は、食物タブーどころではない、もっと強固な確信になってしまっていち。そうさせてきた大国の愚かな行為があったし、いまもまた巨大な軍事力をもつ大国に仲裁や調停や和解のための働きは全く期待できない。
ロシアとウクライナとの戦闘状態もだが、現在のイスラエル住民とパレスチナ・ガザ住民との戦闘状態、核弾頭のスイッチを持っている米国や中国などの巨大軍事国家による介入などでより混迷を深めている。
主イエスのような「執り成し」が現れ、誰かが「ボタン」を押す前に、悪霊たちの帰るべき場所を指し示してほしいと願うや切なり。