20231015 東淀川教会礼拝 宣教要旨「赦すとは」申命記32章 41-43節ヨシュア記10章 40節イザヤ書2章 4節マタイによる福音書18章 22節マルコによる福音書 13章 8節

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申命記32章 41-43節
私がきらめく剣を研ぎ 手に裁きを握るとき 私の敵に復讐し 私を憎む者に報いる。私は矢を血に酔わせ 剣に肉を食らわせる。殺された者と捕らわれた者の血を飲ませ 髪の長い敵の首領の首を食らわせる。
諸国民よ、主の民に喜びの声を上げよ。主はその僕の血に報復し その敵に復讐し その民、その土地を清められる。

ヨシュア記10章 40節
ヨシュアは山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地などこの地のすべてを討ち、王たちを一人も残さず、息のあるものすべてを滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。


イザヤ書2章 04節
主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。

マタイによる福音書18章 22節
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。

マルコによる福音書 13章 08節
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

宣教要旨「赦すとは」

 旧約聖書には、私たちが読んでほっとする、善悪を裁く、「勧善懲悪」な神のイメージもあれば、神話に登場する様々なキャラクターの神もあれば、嫉妬し、恨み、怒り、残酷に復讐し、「敵の国民」「敵の民族」全ての殲滅を命じる、おぞましくも恐るべき悪魔的な「軍神」の神イメージも描かれています。外側からみれば「おぞましい」姿であっても、戦いの当事者たちからみれば「正義の神」です。

 人々を区別なく死なせてしまう大洪水や大災害、悲惨な伝染病などの現実を「神の怒り」や「神の裁き」と理解する感覚は様々な民族に、普遍的にあると思います。一方で、「敵」は悪魔であり、神に敵対する者として、根絶やしすること、殲滅することが正義という感覚は、人間の、そうなり得る“おぞましさ”であり、被害から生まれる“死んでも赦せない”憤怒をきっかけに、「敵」を蟻のように踏み潰さなければ怒りが治まらない、おぞましい、だれでもそうなり得る人間の姿です。

 殲滅(せんめつ)、「皆殺し」は、ヘブライ語ではヘーレム herem」、ギリシャ語でアナテマ(ανάθεμα, anathema)、で記されています。文学作品では「アナテマ」が多いと思います。日本語では宗教的な意味合いを込めて「聖絶」とも表現されます。

 本日の聖書箇所の申命記やヨシュア記にでてくる神は「軍神」であり、「敵」を殲滅・皆殺しにすることを神の命令、正しいこととする神理解であり戦争理解です。
 日本では日清戦争など大陸やアジア諸国に侵略していったときは「天皇」がまさに「軍神」でしたし、日本軍に抵抗する人々に対しては殲滅(アナテマ)が基本でしたし、何世代にもわたって“死んでも赦せない”恨み(ハン)を残している現実に、現代の日本人はあまりに鈍感だと感じます。

 パレスチナ、“カナンの地”に入植しようとして、侵略者と見做され、戦闘状態が続いたことを表すヨシュア記の神は“軍神”の姿になります。それは、自分(たち)と利害が対立する者を「敵」=神に逆らう者とし、その結果、死んでも赦さない、世代を超えた憎悪を生み出し、維持され、かつ再生産され続ける現実は、パレスチナであれ、日本であれ、世界各地に残っている、人類の負債なのでしょう。

 今起きているイスラエル国家と、パレスチナ「ガザ」自治区の「ハマス」の争いは,戦争が続いている世界の縮図であり、歴史の縮図です。イスラエルの現政権が行おうとしているのはガザ地区への地上戦、殲滅作戦であり、ガザ地区そのものをなくしてしまう計画のようです。そうなれば、“死んでも赦せない”、相手の殲滅こそ正義であり、聖戦(ジハド)として身をなげうって戦いを続ける人々を更に増大させることになるのでしょう。2001年の9.11事件がエンドレスに続く結果を引き寄せることになると感じます。

 忘れてはならないこととして、圧倒的に強い立場にあるのがイスラエルであり、圧倒的に弱い立場にあるのがパレスチナ自治区であるのはあまりにも明らかです。

 イザヤは神の言葉として「武器を農具に変えよ」を人々に伝え、イエスは、「死んでも赦すことのできない憤怒」を、7の70陪赦せ、赦し続けよ、赦すための行動を起こせ、と語りかけていると思います。

 許す、という字は、混同されていますが、許可するという、今後に向けての意味が本来の使い方であり、過去の恨みや怒りなどで相手を裁かない、の意味では「赦す」を使うのが正しいようです。イエスが語る7の70倍ゆるせ、というのは後者の意味であり、聖書では使い分けられています。

 赦し合うためには、第三者の仲介を互いに受け入れながら対面し続け、被害の歴史や、世代を超えて積み重なっている憤怒をぶつけ合いながら、お互いが神にいのちを吹き込まれた同じ「人」であることを感じ取り、未来に向けて交流が図れるようになるより術はないのでしょう。日本は決して仲介の立場には立てませんし、どの国も民族も、日本を、独立した中立的な立場だとは見ないでしょう。

 もしももしも、可能ならば、イザヤ書の言葉が刻まれている国連の場で、イスラエル側代表とパレスチナ側と、関係諸国が円卓で話し合いを続けることが可能となったのなら、少なくとも対一次世界大戦後の戦勝国側で大きな力を持っていた大英帝国が行った「三枚舌外交」までさかのぼって延々と話し合いを続けるしかないのでしょう。

※1915年「フセイン=マクマホン協定」アラブ人国家の建設を約束。
※1916年「サイクス・ピコ協定」オスマン帝国の英仏露による分割。
※1917年「バルフォア宣言」パレスチナにユダヤ人国家の建設を証人。

 如何なる歴史的背景があろうと、死んでも許せない憎悪があろうと、逃げ出すことの出来ない弱者や、子どもたちだけは理屈抜きに守られなければならない。そのための声はあげ続けたいと願います。また、日本が、“アラブ地域、中東の反乱やテロを鎮圧させるために”自衛隊を派遣する、などというような、バカなことをしないよう日本政府を見張ることが重要だと思います。
 日本基督教団の社会部がガザ地区の被災者を救うための「アハリー・アラブ病院を支援する会」を立ち上げ、ながいあいだ活動を続けている。遅ればせながら、わずかではあるが、この活動に東淀川教会も参加していきたい。

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