20231008 東淀川教会 礼拝宣教要旨マルコ福音書10章41-45節 ルカ福音書48節

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本日の聖書箇所

マルコによる福音書 10章 41-45節
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。(41)
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。(42)
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、(43)
あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(44)

人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45)

ルカによる福音書9章 48節

言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」

宣教要旨「だれがえらいの?」

 私の肺臓だけでなく脳みそもかなりガタがきていて、週報の日付やら讃美歌やら聖書箇所の間違いが多くて「ゴメンなさい」です。イエスについての語り部としての役割の終え方、引き際、東淀川教会の今後について、皆様のご意見をうかがいたいと願っています。

 本日のキーワードは、イエスの言葉にも盛んに出てきたであろう「エライ」です。こどもが親や周囲の大人から学びとる「エライ」は、社会関係のポジションを表す上下関係や権力関係の“上”を表すエライ(王様・センセイ)や、学ぶ、尊敬する、頼るべきエライ(達人・専門家)などがあります。こどもは習得した「エライ」のニュアンスを嗅ぎ分けながら大人に向かって背伸びします。もうひとつ、日本語には「エライ目にあった人、辛さや苦しみに耐えた人、酸いも甘いも噛み分けた人」への尊敬を込めた意味、キレることを我慢したこどもを誉める“エライ”がありましたが、近年消えつつある言葉遣いになりつつあります。堪えて我慢している子どものこころを感じ取れる、誉められる大人が少なくなったのでしょう。

 おそらくイエスは上から下にものを言うオトナたちに対して『エラそーに!』みたいな言葉や譬え話をいっぱい使って批判していたはずです。「他人には義務という重荷をたくさん背負わせて、そのひとの苦しみを軽くするために指一本でも貸そうとはしない!」など。でも我慢している、堪えている子どもや人のこころがわかる子やおとなたちに対しては、「神さまは、みんなが神の子なんだ。その中の、重荷を背負って生きづらくしている神の子らに目をとめ、降りてきて、後ろから支えてくださるんだよ」と語りかけていたと思うのです。

「現人神である天皇のもと、護国の鬼となれ」と叫んでいた人々が、一夜にして「民主主義者」に衣替えしネクタイを着けるようになった。 1945年の敗戦とともに日本帝国が終わり「民主主義・デモクラシー」が最も重要な理念として憲法に記された。それまでの△、ピラミッド型国家理解から、逆三角▽、一番上には身分も障害もレッテルも関係ない住民たちがいて、下にはそれを支える公僕たちがいる、という“ポンチ絵”が一瞬現れたりしました。明治の開国以後、洋風のハイカラなキリスト教が入ってきたわけですが、戦後もこの民主主義幻想とともに米国から入ったハイカラなプロテスタント系キリスト教の信者がかなり増えました。が、天皇の神からの降格、人間宣言はありましたし、「二度と過ちは繰り返しません」の広島宣言などはありましたが、どんな国作りをするのかの、わたしたち平民、民衆レベルでの展望作り、ビジョンの積み上げ作業も、民中心の「革命」もありませんでした。
 米国への軍事的従属関係を正面から議論することも独立もできず、新たな国作りも、自分たちの手でこの国の「民主主義」を手に入れることも出来ないまま、ピラミッド最下層への重荷を広く引き延ばし、増やしてきたのだと思います。
 政治学者の丸山眞男は『日本人は「社会」を「自然」と同じように(環境として)捉えている。自分たちで社会システムを作ったことはない。』と表現しましたが、「國」のイメージ、故郷は摂津国や出雲国のままだったのでしょうか。
 米国同時多発事件とともに幕を開いた21世紀。日本は事実上の属国状態を続けながら「経済が…ゼニが…」と,大企業中心の経済政策で延命を図り続けているように見えます。

 現在は「国なんてどうでもいい?」グーグルやアマゾンなどのGAFAMを中心としたネット社会、しかもweb3に入ったと言われています。
 web3の新時代は「各国」が各々の主人公ではなくなり、巨大資本とGAFAなど国境を越えたネットベースの巨大企業が世界経済をリードし、国家や銀行をベースとした円や$等の金融ゲームから、「仮想通貨」が取り引きの主流となる世界になる予測がかなり信憑性を帯びて迫ってきています。もはや情報過多、認知不能で頭がオーバーヒートしそうです。
 世の中はこれからどうなっていくのかを一緒に考える、情報を共有し合う、社会的弱者たる私たちが知恵を出しあい、互いの支え合う、デジタルに乗り切れないアナログの人間たちの、わいわいがやがやと集うところとして教会が用いられたら、と願います。

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