20231105 東淀川教会礼拝 宣教要旨「弔いの歌を唄うとき」マタイ福音書11章12ー16節
/ 本日の聖書箇所
マタイによる福音書/ 11章 12〜16節
洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。(12)
すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。(13)
あなたがたが進んで受け入れるなら、この人こそ、来るべきエリヤなのである。(14)
耳のある者は聞きなさい。(15)
今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。(16)
『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』(17)
/ 宣教要旨「弔いの歌を唄うとき」
神の国を地上の国が攻め奪い取っている、とイエスは語ります。
地上の国の支配者たちが軍事力、経済力、支配力を高め、神を畏れず神の国を求めなくなった王や為政者や宗教者たちが神を語り、人を裁き、救いの条件を押しつけ、条件に満たない「汚れた人」「罪人」として排除される“貧しい人々”の群れ。この時代を何に喩えようか、とイエスは語ります。
子どもたちが広場に集まり、二つに分かれ、一方の誰かが笛を吹くまねをして口でメロディを奏で、それに合わせて踊ったり、葬式ごっこで大きい声で泣いたりの遊びと童歌があったようです。遊びの中で人と出会う喜びを手に入れ、別れを嘆き悲しんで人を知ることができる。遊びの中で、ともにいられる喜びを共感し合うことが出来、遊びの中で死の恐怖や離別の悲しみを共感し合うことが出来る。でも今は笛を吹いても踊ってくれないし弔いの歌も一緒に唄ってくれない、とわらべ歌で表現しているじゃないか、と。
大人たちが、こどもたちの共感の世界を壊してしまっている社会であると、イエスは語っているように思われます。それはまさに「この現代社会」と重なっていると感じます。
現代社会。戦争の悲惨さを戦死者の数で表す大人たちの合理性や、経験、論理も持たないこどものほうが、その時代の空気に敏感なのでしょう。『同情ほど愛情から遠いものはありません』(北條民雄・命の初夜)。同情はしても隣人や弱者につれなくなり、互いに助け合って、神さまから生かされている喜びを分かち合う祭りや歌や踊りが生み出されなくなっている。戦争で倒れる人々だけでなく、孤独死や自殺は増え、ひとりひとりがどのように生きてきたかを思い出し、別れを悲しみ、弔いの歌をともに歌うこともなくなりつつある時代。荒涼とした砂漠のなかに『人権尊重』『ハラスメント禁止』『プライバシー尊重』『多様性尊重』『自然保護』などなどの“標語”が立っている…そんな風景でしょうか。
街からゴミ箱が消えています。お葬式も消えつつあります。子どもの自由な遊び場もなくなっています。街の安全のためという標語、律法により監視カメラは増え続けています。街の空き地、広場、公園、河川などは子どもたちが遊び続けることのできる場所ではなくなり、ベンチで老人たちが煙草を嗜みながら議論する風景も消え、あたかも街そのものが「清潔な病院設備」へと変貌し、“病院内感染”を恐れてマスクを外せない、通過するためだけの街に変貌しつつあります。
こども10歳前後。大人たちの毒を発見し、毒を取り入れる子と、毒を持てない子、要領のよい子と要領の悪い子に分かれ、後者は自閉しつつ自分を守るしかない子どもたちの現実があります。
“神の国が激しく攻撃されている”
このイエスの言葉を、現代の現実への言葉として、「こどものこころ」が激しい攻撃を受けているメッセージとして、真摯に受け止めたい。こどものときのこころを、見失うことがありませんように、と祈りたい。
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