20231112 東淀川教会礼拝 宣教要旨「ぶどう園から逃れの町へ」マタイ福音書21章33-46節

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

聖書箇所

マタイによる福音書21章 33節
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。(33)
収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫のところへ送った。(34)
ところが、農夫たちはその僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。(35)
また、前よりも多くの僕たちを送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。(36)
そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。(37)
農夫たちはその息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう。』(38)
そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。(39)
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(40)
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」(41)
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。/『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。/これは主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』(42)
だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。(43)
この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」(44)

マタイによる福音書/ 21章 45節
祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、(45)

マタイによる福音書/ 21章 46節
イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(46)

宣教要旨「ぶどう園から逃れの町へ」

ぶどう園を造ったのは主なる神であり、主が大いなる恵みを地上に齎(もたら)すためブドウの木を植え、垣や搾り場や見張り台などの仕組みを整えて農夫たちに任せた、とは、土地や自然などは神が造り人に貸し与えたものであり、いっとき地上を過ぎていく人が一時的に借りているにすぎず、それらを“我が物顔に”所有したり独占したり処分したりすることは、人の傲慢から来る“過ち・罪”である、という、この世への理解が前提になっています。ついには神の御心を実現しようとする息子(神の子)を外に放り出して殺してしまった、とは、神に対する後ろめたさを振り切り、「ぶどう園はもともと誰のものか」の先祖から伝わっていた記憶を、人々の記憶の中から消し去り、独占し、仲間以外の主の恵みを求める人々を排除したり殺してしまった、というのです。これは現代の「パレスチナ・イスラエル問題」にそのまま当てはまります。

「パレスチナ」と「イスラエル」の領土変遷の図を見ると、1946年にはパレスチナの中でわずかなイスラエル人入植地ですが、2012年にはわずかなパレスチナ領土になっています。この間、双方の領土はこれまでも確定しておらず、“戦争”が続いてきたことをあらわしています。現在のガザを巡る戦闘状態も双方によるせめぎ合いであり、ガザに暮らす人々から見れば、ガザごと全てを奪われるかどうかの瀬戸際でしょう。
この土地独占と排除の矛盾の頂点にエルサレム神殿問題(旧市街地)問題があります。
 21世紀のエルサレム旧市街。垣に囲まれた1㎢ほどの狭い神殿の町。ここにイスラム教やユダヤ教やキリスト教の、譲ることの出来ない信仰の象徴があり、パレスチナ人、ユダヤ人、アルメニア人などが暮らしており、国連が介入して町を四分割する案もありましたが、実現しませんでした。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領が2017年12月6日にエルサレムをイスラエルの首都として認識・承認した暴挙があり、国連では承認されていませんが、これまでのパレスチナにおける“戦争”を一挙に拡大させる要因になったことは確かでしょう。

 パレスチナはもともと土地の境界は曖昧であり、土地は神のもの、という感覚が強かったところです。だからユダヤ人の入植が可能だったのです。それを軍事力と政治力でパレスチナの人々の居住区を奪い続けてきました。“私たちユダヤ人は長い間、国家を持たない民族であり、このようなユダヤ国家の拡大とパレスチナ人の排除は間違っている”と訴えるユダヤ教の人々も多いのです。
イエスの語る“ぶどう園と農夫”の譬えは、まさに今の状況を指していると思われます。


 エルサレム旧市街地は、それぞれの聖地である以上、どの国やどの宗教も独占してはならないし、開かれた祈りの場である以外はあり得ません。ユダヤ人がパレスチナに入植を求め、イスラエル国家を認めさせようとしたとき、「迫害を受け続けてきた我々には逃れの町が必要だ」という主張がありました。この戦争を終わらせるには、パレスチナ・イスラエル全体を、国として土地を分割したり奪い合う(所有する)のではなく、誰でも逃げ込め、守られる「逃れの町」(民数記35章11節)を目指すのが“聖書的”だと思うのです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です