20231119 東淀川教会礼拝 宣教要旨「家の体面とは」マルコ福音書3章21−35節

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

聖書箇所

マルコによる福音書3章 21-22節

身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になって
いる」と思ったからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。


マルコによる福音書3章 31-35節
イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
時に、群衆がイエスの周りに座っていた。
「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と
知らされると、イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、
周りに座っている人々を見回して言われた。
「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、
私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

宣教要旨「家の体面とは」

家の体面を翻訳するとfamily appearance、 family face などになるようですが、日本語のニュアンスからはちょっと離れていると感じます。なにかあれば個人のことではなく「家の恥」という感覚は、今もこの国でとても根強い。

エルサレムからやってきた律法学者やファリサイ派の一味はイエスやその仲間たちのことを「気が狂っている連中だ」と言いふらし、イエスの家族にも「おまえたち家族や親戚の責任でなんとかしろ! さもないと…」とか、「イエスたちは汚れたならず者たちを煽動して反乱を起こそうとしているのだ」「バカなことはやめさせろ」などと家族を叱責していたと思われます。

 家族たちが現れたのは、イエスたちのしていることを理解するために来たのではなく、イエスを連れ帰るためか、社会から排除された人たちが集められた“死の谷”など限定された地域か、どこか遠くに行ってほしいと頼むためだったのでしょう。

 この聖書箇所は描写がとてもリアルです。母親と弟妹たちが押しかけ、母マリアがイエスを呼び出してくれるよう頼んだのでしょう。この出来事をイエスは「プライバシーに関すること」とはせず、むしろ大声で皆に知らせ、「家とは、家族とは何か」「母とは何か、兄弟姉妹とは何か」と、そこにいたひとりひとりに問いかけます。
 昔々のモーセたち遊牧民の時代は、首長(リーダー)とその妻が全てを決定し子はそれに従って全てを学ぶしかありませんでした。『父と母を敬え』です。が、15歳前後には天幕を出て、伴侶と結ばれ新たな群れを形成したのでしょう。

 土地に定住するようになり、村落や町での集団定住生活になると、二世代、三世代が一つの家に暮らすこともあり、封建的な家族の連帯責任ごときもの、血縁を単位とする“全体主義(家族あっての個人)”も生まれたのでしょう。

 統合失調症などの精神病は「“悪霊”(サタン)が憑いている」と見做されて一定の地域に追い払われたり、危険な“地の民”(アムハーレツ)として隔離されることが多かったようです。イエスは仲間とともに、彼らの癒やし(治療)を積極的に行っていたようです。“サタンの力でサタンを追い出しているからイエスはサタンの仲間だ”という誹謗中傷が、逆にイエスたちの癒やし行為が優れたものであったことを表現しています。


 イエスの言葉は、家族や血縁を大前提とした、「家(全体)あっての個人」という“全体主義”を打ち砕いています。

 現代にワープします。いまでも日本の精神病院における入院患者の平均入院期間は世界の平均のおよそ7倍です。治療のための入院ではなく、隔離が主要目的だからです。精神病院の人口あたりの病床数も世界の中でダントツに多く、しかも入院患者の約半数が本人の同意のない“強制入院”によるものです。

 隔離政策を正当化しているのは、彼等は危険な存在であり、善良な人々を守るためには隔離が必要だ、という“偏見”(スティグマ)であり、偏見を生み出し、偏見を拡大し、維持させている差別や“医療”や“教育”や“福祉”の現実があります。最近では、「介護の大変な痴呆老人は精神病院へ」が常識化しつつあります。家族が精神病院に入院させようとするのは、“家の面汚し”、“兄弟たちの就職や結婚に差し障る”など、「家の体面」のために本人の意志を無視して長期隔離させていることが多いのです。

 統合失調症は千人に一人は発症すると言われています。基本的に自分の内側に毒気を持てない、強がれない、ごまかしがヘタな“弱い人”です。もしも彼が大声を出したり暴れたりしたとすれば、偏見(スティグマ)による激しい差別や攻撃を受けたことに対する怒りや抗議の表現が殆どです。
 「日本人は旅人に対して優しく、文化もすばらしく、良い国だ」などと言う外国人は多いといわれますが、“体面”しか見ていない評価だと思います。逆に、体面を取り繕うことの上手な国民性だと感じます。取り繕えない、取り繕う材料や手段を持たない“貧しい人”、弱者の側からみれば、この国は「誇れない国」です。

 民族紛争や戦争で難民は世界規模で過去最高に膨れ上がっています。一方で助け合い支え合う仲間を持たない不器用な子どもたちやハンディを抱えた人たちや老人などの弱者や心に病を抱えている人たちが難民化しつつあります。

「弱さ」をオープンな、「みんなの課題」に変えるための交流の場として教会が用いられることを祈り求めたい。

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です