20231224 東淀川教会クリスマス礼拝宣教要旨「このひとを見よ」
本日の聖書箇所
イザヤ書53章4−6節
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。(4)
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(5)
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。(6)
ルカによる福音書 4章16-21節
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。(16)
預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。(17)
「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし(18)
主の恵みの年を告げるためである。」(19)
イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。(20)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(21)
マタイによる福音書 2章13−15節
博士たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(13)
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、(14)
ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。(15)
クリスマス礼拝宣教要旨「このひとを見よ」
(受難のしもべ)
イザヤ書は神に対しても世に対しても傲慢になり「乱世の亡霊」となった人間「イスラエル」の罪を語っている書です。イザヤ書53章が記す「受難のしもべ」は、傲慢のエゴや暴力により苦しみ悲しむ弱き人の友となり、世のどんじりを支え、神の子としての「人」の栄光を取り戻させる、受難の救い主が予告されています。イエスの誕生四百年以上も前の書です。
神さまに用いられるためだけに立ち上がったイエスが、育ったナザレの村で人々にイザヤ書を紐解き、「あなた方がこれを聞いた時、この書は完成した、と語りかけられました。ナザレの村の名前を有名にしてくれる有名人でもなく、アブラハムの子孫というプライドを回復してくれるわけでもなく、ローマの支配を跳ね返してくれるヒーローでもない、惨めな姿の和解者、世の重荷を背負うとりなし人の宣教は、村の名誉を求めるナザレ村の住民や、重税や神殿税に苦しみ、新たな王を求める人々や、ローマへの反乱指揮者を求めていた人々をも失望させ、怒らせるものでした。
イエスの誕生そのものが、安全を守られ周囲から祝福される誕生ではなく、難民として、嘲笑や迫害や危険の中でかろうじての誕生でした。このナザレのイエスが、イザヤ書のメッセージを通して神からの召命を受け、神とともに世のどん底を支える役割を担いつつ、死刑囚として十字架に架けられ、ガリラヤから再出発した復活のイエスは、対立や争いから脱却し、「神さまとの和解」を目指す道へと私たちを招いてくださっています。
世界の難民が増え続け、戦争が続き、電子機器による人間管理が進み、核爆弾使用の危険も高まっている中で1924年を迎えようとしています。十字架ののちにガリラヤから新たに出発し、富も名誉もプライドも持てない「貧しい者」の友として私たちとともにいてくださるとともに一歩前を歩んでくださっている復活のイエス。
戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。(マルコによる福音書13:7)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2:17)
イエスが世に現れてくださったことをクリスマスで祝い、新たな年を、主の約束(わたしはあなたとともにいる)の希望とともに迎えましょう。