20240121 東淀川教会 礼拝宣教要旨「命は人間のものに非らず」創世記2章7節 ヨブ記1章20−21節 マタイ福音書6章26−27節
本日の聖書箇所
創世記2章7節
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
ヨブ記1章 20−21節
ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」
マタイによる福音書6章 26−27節
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
宣教要旨「命は人間のものに非らず」
“気がついたら生きていたし、気がつかないまま死んでいた”というのが実際なのでしょう。命とは本来、抽象的な概念ではなく、動く体のことであり、動かなくなるのが死でした。聖書が神話的イメージで伝えるのは、体を動かす原動力・「命」は神のもので、神与え神奪うもの。動植物も人間も、神に奪われるまで生かされている受け身の存在でしかなく、一瞬たりとも伸ばしたり縮めたりすることもできない。いつかわからぬその時まで、餓死せぬよう、安心して眠れるよう、殺されぬよう、病気や怪我で死なぬよう、文字通り“保身”を図り続けるのが人間なのだろう。人間が上等な存在であるなら、自分だけでなく隣人の保身を互いに助け合うべきであり、それが法(律法)の目的であるとイエスが語った、と福音書は伝えています。
「神」という抽象的概念である用語をみだりに使うことを聖書の民たちは避けていました。動く体は、母の胎で命を吹き込まれ、神に組み立てられ育まれ世に出たゆえに「裸で母の胎に帰ろう」とは、神の命に帰ろう、との直感的表現です。モーセの十戒の“汝の父母を敬え”とは、「子は親に従え」という封建的な意味ではなく、人の親(父母)である、命のもとである神を敬え、の直感的な表現であり、律法の初源的な表現だったと思われます。“父なる神”とは、父権的な国家の歴史の中で好んで用いられた表現であり、元々は“父母なる神”イメージだっと思われます。日本でも身近な人の自殺に接したとき、「親からもらった体を殺すなんて」などという言い回しは、産んだ親に対する反逆というよりも、実は案外と“神に対する反逆”という意味が込められていたようにも感じます。
現代社会で“いのち”という言葉はそこらじゅうに氾濫していることと、“いのちはわたしのもの”とばかりに若者から老齢者までまんべんなく自殺者数が増えていることは、息苦しい(生き苦しい)、やるせない、現代社会の表と裏なのでしょう。
臓器移植や延命治療や安楽死、不妊治療、受精卵の選別、病気と障害の区別、などなど、現代では「いのち」という概念は、死の判定が医師の手に委ねられているように、“病気の治療”を超えて、医療産業、医療技術がリードし、委ねさせられていると感じるのです。
「いのち」という抽象的な概念ではなく、それぞれの自分の「体」に戻り、どこまで、誰に、何を、どう委ねるのか、私たちは聖書を手がかりに語り合い、考えたいと願います。