20240128 東淀川教会礼拝宣教要旨「向こう岸へ渡ろう」マルコ福音書5章1−20節

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本日の聖書箇所

 マルコによる福音書4章 35節
さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

マルコによる福音書/ 4章 37節
すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。

マルコによる福音書4章 39節
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

マルコによる福音書5章 1-20節
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 
イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った。 
この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。 
度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。 
彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。 
イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 
「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。 
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 
イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えた。 
そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願った。 
ところで、その辺りの山に豚の大群が飼ってあった。 
汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 
イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。 
豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 
そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人に起こったことや豚のことを人々に語って聞かせた。 
そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた。 
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊に取りつかれていた人が、お供をしたいと願った。 
しかし、イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」 
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

宣教要旨「向こう岸へ渡ろう」

イエスたちが“向こう岸”(ゲラサ、ガダラ、ゲルゲサなどとも表記されている)に渡ったことは、とてもでっかい事件だったようです。プロローグはイエスの「向こう岸に渡ろう」という言葉。そこは勝手に侵入してはならない、ヘロデ王やエルサレム神殿が管理している、勝手な侵入が禁じられていたタブーの地にイエスたちが侵入したと思われます。「舟を襲った大嵐」が、イエスたちの行動がどれほど時代に敵対する危険な行為であったかを表現しているのでしょう。「墓場・監獄・発狂した人・鎖で繋がれた人・大声で叫び続ける人」等の描写が、そこが時代のおもてから隠された際暗部であり、悲惨な現実があったことを描き出しています。“悪霊に取り憑かれた”と見做された人々が隔離された地なのでしょう。そこでイエスたちによる、一人ひとりに対する治癒、解放活動が行われたことが、それぞれの福音書においてドラマチックに語られています。

 鎖を引きちぎって叫ぶ声は、自分たちを捕まえ隔離し閉じ込めているものへの抗議が込められているのでしょう。イエスの「名は何というのか」という問いかけは、一人ひとりに、今日でいう“カウンセリング”が行われたことを示しているのでしょう。悪霊を豚の群れに移した、という記事は、かつて日本で行われていた、心の病を“狐憑き”とし、当事者から狐を呼び出して治療者が狐と対峙し、狐にはお山に帰るよう説得し、狐が本人から離れたことにより治療が完成する、という“狐落とし”の手法によく似ています。狐や豚にとっては迷惑な話ですが、一種の心理療法だったのでしょう。

 体が病むように精神も病みます。精神が病むことの背景に、心身の弱者に対する差別、疎外、危険人物と見做して排除するという、集団側からの、或いは社会の側からの攻撃がいつの時代でもあると思うのです。

 教科書で英国人ダーウィンの進化論を学んで、その名前を覚えている人は多いと思いますが、ダーウィンの従兄であるフランシス・ゴルトンの名前は私も知りませんでした。学校では教えません。彼はダーウィンの進化論と並行するように、社会は優秀な子孫を後世にいかにして残すことができるか、という「優生学」を作った人です。優生学は、いかにして「劣生」の人間を排除するか、生まれないようにするか、という理論と表裏一体です。ドイツのヒトラーと同様の考え方です。 
 現代は「民主主義」を掲げている社会ですが、この「優生学」の思想は強かに残っていますし、現代社会の子どもたちの心を不安や恐怖とともに襲っている最も大きなものだと感じています。

 自分の子どもが普通の人として社会から扱われるためには、せめて大学だけは出しておかなければならない、と考える親は、ある意味で、優生学の被害者とも理解できます。まず学歴で採用を決める企業が、優生学を推し進めていると言えます。そんな学歴差別が常態化している社会の中で、「就学前診断」が子への篩(ふるい)となリ、障害による振り分けが行われ、就学後も「身体障害・発達障害・特別支援対象」等のレッテルが貼られたり振り分けられるという恐怖は、子や親を襲い続けていると思います。

 「障害」という言葉、概念そのものが曖昧になっています。日本語の「病気」と「障害」の違いも曖昧になっています。メガネをかける人が多くなれば、「眼鏡をかけている人には視覚障害があり、眼鏡は視覚障害者の補装具」などという日本語はもはや通用しなくなっているわけです。

 発達障害者支援法(2005年 法律第167号)とは自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害などの発達障害を持つ者に対する援助等について定めた法律、となっていますが、治療が必要な病気なのか、治療によって治る病気なのか、治らない障害なのか、よく考えても調べても不明です。

 2023年不登校児童約30万人。登校し特別学級に分けられる児童15万人。2022年1年間で自殺した小中学生や高校生は暫定値で512人となり、初めて500人を超えて過去最多となったとのこと。
 確実なのは、子どもたちにとっての現代社会は、のほほんと生きられない、不安や恐怖に満ちた生きづらい社会であること。そして、こんな社会にした大人たちの責任が問われていると思います。

 先週の出来事

 2019年の京都アニメーション放火事件(死者36人)の加害者に死刑判決。
本人も火傷で10ヶ月入院して退院後に逮捕・起訴され裁判が続いた。ずっと治療にあたっていた医師のコメント「本人を事件の被害者たちに向き合わせるために治療を続けた」と。あたまが下がる思いがした。が死刑にされることで被害者たちに向き合うことになるのか、罰として殺されることが責任を取ることになるのだろうか。生きて事件と向き合い続ける、わずかでも償い続けるための無期懲役という判決はあり得ないのか、と思う。

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