20240331 復活節第1主日礼拝 (イースター)ルカ福音書24章1-12節 「夜明け前」 向井武子牧師
聖書箇所
ルカによる福音書24章 1〜12節
そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。(1)
すると、石が墓から転がしてあり、(2)
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。(3)
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。(4)
女たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。(5)
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。(6)
人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」(7)
そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(9)
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。(10)
しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。(11)
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。(12)
担当 向井武子牧師のご紹介
東淀川教会は医師であり牧師であった菱川侃一牧師のもと、1959年3月29日のイースターに生まれました。今日はここ東淀川教会の65歳の誕生日でもあります。
本日のイースター礼拝は、金田が主任牧師となるまえに、向井憘夫牧師とともにこの教会を主任牧師として導いておられた向井武子先生が福音宣教を担当してくださいます。
2024年3月 ウクライナでもパレスチナのガザでも大量殺人が繰り返されています。この国でも人間関係は更に疎遠となり、“お互いさま”の心は失われ、責められたり裁かれたりすることに怯える心が蔓延しています。
人を「敵」として殺すことにも、「刑罰」として殺すことにも「義」はありません。償いも和解も、互いが主に生かされていればこそ可能です。
向井先生は大きな犯罪を犯し死刑囚となった若者と、ともに悔い改めと和解への道を探るために養子縁組をし、支え続け、死刑廃止を社会に訴え続けてこられました。
ご病気の療養中ではありますが、東淀川教会イースター礼拝に「夜明け前」と題して主イエスからのメッセージを取り次いでいただきます。
向井武子牧師 宣教 2024年3月31日イースター礼拝 説教題「夜明け前」 ルカ福音書24章1−12節
本日のテキストは主イエスの苦難と、壮絶な「十字架の死」という出来事から三日目の、まだ明けやらぬ、漆黒の闇が辺りを覆っている頃の出来事です。皆さんもキリスト教に触れたり、聖書を読んだりして、聖書には「躓きの石」がいっぱいあることを知っておられると思います。例えば、イエスの処女降誕とか、様々な奇跡物語とか、本日の聖書箇所のように、死んだイエスが生き返ったとか。死者が生き返ったとは「躓きの石」の中でも最大級の石(墓穴を塞ぐほどの大きな石)です。この「躓きの石」が原因で、教会や信仰生活から去っていった人も多くいることでしょう。
私たち人間は、生まれた時から死に至るまで、死を恐れ、死を考えないようにしながら、実は死に向かって人生の旅をしています。「死んだらおしまいだ」これが私たちが人生経験から得ている知識、答えです。ある学者は「人間は死んだら分解されゴミになって土に還る」と言います。しかし今日のテキストはこうした私たちの考えとは真逆の出来事を伝えています。しかもその出来事を伝えたのは女性たちであり、しかも四つの福音書全てに登場する女性はマグダラのマリアでした。
主イエスの時代は女性は社会の人数の中に入りませんでした(今も多くあることです)。蔑まれ、「無能力者」とされ、男性とは対等に扱われませんでした。その中でもマグダラのマリアは、七つの悪霊に取り憑かれていたとテキストは記録していますが、今日的に言えば心身ともに深い病の中にいたということでしょう。その心身の病を主イエスによって癒やされ、生まれたことと生きる喜びを取り戻した女性です。
余談になるかもしれませんが、男性の弟子たちは、主イエス誕生の時も、主イエスの十字架刑の時も、そして復活の時も、その存在の陰をひそめています。霞んでいます。言い方を変えれば舞台の中央には女性たちだけなのです。
主イエスは、世の中で大切な人として扱われず、小さくされ、見放され、見捨てられた人、病や障害や重荷を負う人、ちいさなこどもたちに近づき、「小さき者、貧しい者こそ幸い」と宣言され、存在の「かけがえのなさ」を取り戻させ、神の栄光を示してくださいました。神の御心も主イエスの信仰思想も、この世の価値観、考えとは逆転しているのです。テキストを読めばそのことが解ります。
マグダラのマリアたちも、その人生経験によって「死がいのちの終わり・全ての終わり」と考えていました。だからイエスが十字架で殺された出来事に怒り、悲しみつつも、遺体の葬りとお別れを行うために墓を訪れています。しかし、そこで目撃したことは、こうした女たちの考えを打ち砕く出来事でした。
私たちの人生経験の上に立った思い、理解を打ち破る、打ち砕くのが神の出来事であり、それを信じることが信仰である、とするなら、信仰とは「理解不能な、とっぴなことを信じること」なのでしょうか。そうではありません。神のなさることは全て私たち一人ひとりへの神の愛から出ていることなのです。
主イエスの復活とはどんな神の愛なのでしょう。それは私たち全てを「罪と死」から救い出そうとされる神の愛です。人の罪を明らかにするのは正当なキリスト教だけです。「罪と死」は表裏一体となって私に迫ってきます。罪とは①神との関係と②人との関係とに現れます。聖書・テキストは罪を問い罪に答える本です。
罪とは「的を外すこと」 的とは神です。
私たちを創造し愛してくださる神に背いて、神から目を反らしていきること。「神ありのとき」を神なしで生きることです。
②人との関係では、自分や自分たちだけをかけがえのない大切な存在として生きる自己中心的な生き方であり考え方です。ローマ人への手紙8章に描かれている人間の姿です。
私たちを愛して止まない神が、私たちが罪により滅んでいくのを放っておくことがおできにならなかったのです。だからこそただ一人の御子イエスを私たちにお与えになられた。主イエスは神の使命をその身に受けて私たちの元に来てくださったのです。
悲しみに暮れて墓を訪れたマグダラのマリアや女性たちが見たものは、墓が空だったという事実です。ここで天使の「主は蘇られた」とのメッセージを聞き、彼女たちは信じた。信じたからこそこの出来事を使徒たちや仲間たちに伝えずにおれなかた。「伝えずにはおられない」溢れる思い。それが「宣教」です。
ここで女性たちは悲しみからの方向転換をします。十字架の死からの勝利宣言を携えて女性たちは宣教に走り出します。そして幾度も語り聞かせたことでしょう。
しかし使徒たち、男の仲間たちは信じなかった。大きな石に躓いたのです。「女たちの言うことは馬鹿げたこと(ナンセンス)だと、信じようとはしなかった。十字架刑ですべては終わったと思ったからです。
主イエスは、「私は復活である。あなたはこれを信じるか」と迫ります。私たちはイエスの「迫り」に答えなければなりません。
私たちも大きな石に躓くかも知れません。でも躓いてもいいのです。が、躓いたままで終わってはいけません。諦めてはいけないのです。躓きつつ祈り、聖書を読み、礼拝に出席し、聖書の言葉を聞いていくのです。聖霊が、復活のイエスが私たちを導いてくださいます。
ヨハネの黙示録21章3−5節
「そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
すると、玉座におられる方が言われた。「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」(警告と道しるべ)
私たちはもはや死に向かって、滅びに向かって、神に目を背けたまま歩いているのではありません。主イエスはご自身の復活という事実で「復活とは何か」を示してくださった。それが「復活の初穂となられた」という言葉の意味です。
私たちは主イエスの全生涯を追いつつ、今も私たちの前を歩んでくださる復活の主イエスを追いつつ、希望に満ちて人生の旅を、自分の死を超えて生きるのです。
(祈祷)
復活の主なるイエス・キリスト。あなたの十字架の元で礼拝に集うことが出来たことを感謝いたします。わたしたちは度々迷い、疑い、躓く者ですが、死人の中から蘇られた主イエスの跡を追いながら希望に生きることを得させてください。どのような人間の思想も立ち入らせることのないあなたの真理に活かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。