20240414 東淀川教会礼拝宣教要旨「乳飲み子こそ」イザヤ書11章8節 マタイ福音書21章15-16節
聖書箇所
イザヤ書 11章 8節
乳飲み子はコブラの穴に戯れ 乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
イザヤ書49章 14-15節
しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた」と。
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても 私はあなたを忘れない。
イザヤ書65章 20節
そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も 自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。
マタイによる福音書21章 15-16節
しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」
詩編8編 2-3節
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き 幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え 敵と報復する者を鎮めるために。
宣教要旨「乳飲み子こそ」
乳飲み子、と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。
2,30年前頃まで、赤ちゃんにお母さんがおっぱいを与えている風景は決して珍しいものではありませんでしたが、殆ど見かけなくなりましたね。まさに、無条件にほっこりする、平和の象徴のような風景ですが、見かけなくなったのは時代が平和じゃなくなったからなのでしょうね。(まさか、母親が赤ちゃんへの授乳のためにおっぱいをだすことが卑猥だとか猥褻だとか、遅れている!とか非難する人がいるのでしょうか?)
イザヤの口を通して語られ、イエスも語っている“乳飲み子”とは、もっとも神さまに近い存在であり、人の子が自然と調和しており、自然とともに神さまに活かされている平和を表現しています。
意図的に神を礼拝している大人たちではなく、乳飲み子や幼子こそが神さまに活かされていることを喜び、与えられた自然を喜び、その仕草や発する声が神を讃美している、とイエスは語ります。だからイエスの祈りは「アッバ」という幼児語で始まるのです。
乳飲み子や幼子が毒蛇(マムシやハブなど)と遊ぶ、戯れるなど、自然から遠ざかってしまった現代の人からは絶対あり得ない絵図なのでしょうが、古代パレスチナや日本の幼門時代だったらあり得たんじゃないかなと思います。第一、毒蛇の毒は攻撃のためにあるのではなく、防衛のためです。乳飲み子と友だちになれそうな気もします。また、縄文土器にも蛇やカエルが大切なタンパク源だっただろうことを感じます。
余談ですが、縄文時代から続いてきたであろう諏訪大社の神事に、神さまからいただいた鹿の頭を並べて感謝を献げる儀式のほか、生きたカエルを捕まえて串刺しにして奉納する儀式があり、それに対して「自然保護団体」が“カエルちゃんを殺すなんて残酷”と抗議し続けているようなのです。youtubeで見ることができます。彼等は自分達を、「自然を守る戦士である」と傲慢にも思い込んでいるようですが、カエルをいただき感謝を献げる自然との関係こそ自然を守り自然から守られることであるのに、それが全く理解できないのでしょう。
人間たちが作り出す上下関係やお金持ちと貧乏人との関係、強い者が弱い者を虐げ続けている地上に、神が、虐げられている人々の列の最後尾(しんがり)に立たれる、神の国が近づいているビジョンをイザヤもイエスも語っています。立派な、長いお祈りをする大人ではなく、乳飲み子こそが神さまにもっとも近い、人類の希望、平和の象徴なのです。
戦闘準備や目的不明な万博、賭博場建築には予算が付き、子育て支援や被災者支援には予算がつかない昨今。子どもの出生率が下がり続けているこの国。乳飲み子がお母さんのおっぱいを飲む姿が町から消えた現代都市は、希望が消えかかっているコンクリートジャングルなのでしょう。
主イエスとともに、「アッバ・・・」と祈りたい。