20240421 東淀川教会礼拝宣教要旨「人とは何者なので」詩篇8篇1−10節 マタイ福音書6章24−30節
聖書箇所
詩編8編 1-10節
指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1)
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き(2)
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え 敵と報復する者を鎮めるために。(3)
あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。(4)
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。(5)
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ 栄光と誉れの冠を授け(6)
御手の業を治めさせ あらゆるものをその足元に置かれた。(7)
羊も牛もことごとく、また野の獣(8)
空の鳥、海の魚 潮路をよぎるものまでも。(9)
主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。(10)
マタイによる福音書6章 24-30節
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(24)
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。(25)
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(26)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。(27)
なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(28)
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(29)
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(30)
宣教要旨 「人とは何者なので」
人類は言葉や文字を生み出す以前から、大自然の中で地上を流浪・遊牧しつつ、全ての前提である“神”と対話し続けてきた。移動し交流する民たちが自分達の“神”イメージを言葉や画や像で表すことは「偶像化」であり不遜であり畏れ控えなければならなかった。それがイスラエルの信仰やキリスト教の中でも「神の名をみだりに唱えてはならない」「偶像崇拝禁止」など、史的に変型されものが残っている。信仰とは、“神あっての大自然”、“神あっての生命・人”という「大前提」に生かされ生きる姿勢そのものを指している。
国家が生じた古代オリエント文明から地中海沿岸に舞台が移るとメソポタミアは表舞台から切り捨てられ、舞台が地中海周辺へ。更にはアルプスの北に舞台が移るとギリシャは切り捨てられ西欧中世史が始まり、封建領主から近代資本主義国家社会へ移行し、科学的精神(啓蒙的・実証的・合理的精神)が重視され、歴史も人類も先進諸国を中心に発展進歩している、という、人間の「意識」中心の“西欧中心史観”、更には経済システムを基盤とする唯物史観が人々の「意識」を牽引した。そこからは後進国、未開の地、辺境の文化などは見放されてきた。神との対話から始まった宗教はそれぞれの国家と密接に結びつき、民族意識や国家秩序安寧の重要なツールとしてその役割を果たしてきた。
“神”をイデー、概念として広めるのに役立ったのが初期キリスト教。パウロの「神は愛なり」の宣教は“神”を知的理解のために概念化したのであり、イメージとしての「偶像化」でもあった。それは同時に“信仰した者が救われる”「選民思想」を生み出し、神は契約した者を救わなければならないという“神契約”と、人の傲慢をも生み出すことにもなったわけです。
「愛は地球を救う」の標語のもと、神に代わって地球環境保護、自然保護や好きな動物保護などに奔走する人々の心に、「信仰」を利用した自分の感情の絶対化、更には神に近づこうとする傲慢さを感じてしまうのです。
本日の聖書箇所は、傲慢になりがちな「人」が、被造物の中で神に愛される特別な存在ではないどころか、愚かな、罪深い存在であることを言い表し、謙遜・謙虚さを呼びかけていると感じられます。イエスの宣教も、“神の子”として生かされている「人」への、親なる神への謙虚さを呼びかけていると感じられます。