20240505 東淀川教会礼拝 宣教要旨「こころの奴隷」出エジプト記20章2節
本日の聖書箇所
創世記15章13-14節
主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。(13)
しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。(14)
出エジプト記20章2節
私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
イザヤ書 61章1節
主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み 捕らわれ人に自由を つながれている人に解放を告げるために。
ルカによる福音書4章18-21節
「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし(18)主の恵みの年を告げるためである。」(19) イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。(20) そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(21)
宣教要旨「こころの奴隷」
ヘブライ語の「奴隷」 エヴェド(עבד)には“奴隷の子は奴隷と定められる”運命的・永続的な「身分」から、一定期間雇われる、契約に基づく「使用人」という意味をも含んでいるようです。
神の自己紹介で有名なのに「わたしは「在る」(エヒィエ)という者「存在の始まり」出エジプト記3章14節 がありますが、本日の「奴隷の家から導き出した者」「奴隷から解放した者」という自己紹介、表現は、わたしたちが「神」を語るとき、とても重要なメッセージだと思います。
かつては遊牧民として天の下を故郷とし、神に導かれて移動していたアブラハムを先祖に持つ民たちが、飢饉などの天災を機に、食料や安全を求めてエジプト王国に使用人・労働者として寄留していたが、数世代に及ぶ家畜的処遇の中で、奴隷の身分に甘んじる者と、魂の救済を求めて先祖からの神を呼び求める者とに分かれた。分断と孤立化を深めるイスラエルの民。同胞への虐待を見過ごせず救いを求める祈りに神が答え、エジプトから逃げていたモーセを遣わし、新たな流浪の旅への呼び出し、出エジプト40年の旅が始まった。
土地や国家を持たない移動の民の「神話的口伝宗教」と、土地や国家を前提とする「成文宗教」とは決定的に異なる。前者は救いを求める個々人と神との対話・祈りが信仰の中心であり、後者は国家や民族全体を前提とする個人のあり方を求める信仰が中心となる。
かつては国王権力と軍事力、財力を頂点にした全体主義の民族国家拡大を求めて神に導かれなくなったイスラエルの民だからこそ、神の導きに戻り、武器を放棄し、人の人による支配、強者・富者による弱者・貧者の奴隷化を止め、神を親とする神の子たちを解放すること、互いが支え合うことが神の御心であるとイザヤは語り、イエスもまたイザヤと同じ主の言葉を聴いた。
「ユダヤ人は完全に神に見捨てられるという例外的経験を持ったからこそ、加害・被害を超えて人間の愚かさを引き受けつつ、地上の隣人と生かし合う、生かされ合う道を探り、倫理の構築がなされなければならない」と語るエマニュエル・レヴィナス(ユダヤ人哲学者、親族の殆どをナチスによって殺害される)。 2008
2千年近く移動の民(ディアスポラ)として国家主義を超えてきたはずのユダヤ人が、ナチズムによる民族的な虐殺・悲運を逆手にとり、巨大軍事力を誇るイスラエル国家建設と軍備拡大は、あたかも神に導かれることを放棄したかに見えます。
イスラエル国内でもパレスチナ自治区、ガザ地区への攻撃に抗議している若者もいるようですが、戦時下のイスラエルでは批判的な声を挙げることすら困難なのでしょう。
米国の諸大学で米国のイスラエル支持政策に対して抗議行動が高まっているようです。日本でもガザ地区、パレスチナ自治区への支援やイスラエル政府への抗議行動は一部学生中心にスタンディングデモは行われていますが、ウクライナに比べて関心は低く、政府や各政党とも全体としては見て見ぬふり状態に感じます。