20230416 東淀川教会 復活節第2主日礼拝 詩篇91編 マタイ福音書18章 宣教要旨「守護天使とは」
聖書箇所
詩編91編
いと高き方を隠れ場とする者は 全能者の陰に宿る。(1節)
主は羽であなたを覆う。あなたはその翼のもとに逃れる。主のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものも 昼、飛び来る矢も あなたは恐れることはない。
(4~5節)
主はその使いたちに命じて あなたのすべての道を守られる。(11節)
マタイによる福音書18章
その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。(1〜6節)
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(10節)
すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。(ルカによる福音書1章30節)
宣教要旨「守護天使とは」
旧約聖書では「主の使い」、福音書には「天使」が多く現れます。神と地上世界、生きた人間との間で働く、眼には見えない“神の働き”を指すのでしょう。英語ではHoly Spirit、聖霊と書き記されてきました。仏教なら阿弥陀如来に当たるのでしょうね。万物や動植物、全ての生命に宿るものはSpirit、“精霊”で書き分けられてきたようです。「守護天使」は、神が人間一人一人を守るために付けた天使を指していて、古い時代のほうがよく書き記されたり語られたイメージだったと思われます。日本だったら、眼に見える山の精霊だったり、土地の神々だったり、大樹の霊だったり、祖先や死んだ親たちの霊などがこの「守護霊」に当たるかと思います。
初期キリスト教が中東から西欧に広がり、哲学や神学論争が盛んになり、何が正しい信仰か、について議論が繰り返される中で、民衆の中で育まれた、さまざまな聖霊たちや、守護天使などのイメージや表現が、唯一神信仰や、聖霊解釈や、「偶像崇拝禁止」の名のもとに、自由な信仰の産物などが排除されるようになりました。根強かった「守護天使」の概念は残りましたが、それに伴う様々な表現の多くは「マリア崇拝」に集約されていったと感じます。
合理性を求めた近代市民社会とともに始まったプロテスタント教会では、教会の伝統からの脱却と、信仰の理論化が進み、神話的な伝承や信仰の象徴物などとともにマリア崇拝も隠されました。
自然界を包んでいる、大きな力のもとで(神の御翼のもとで)、動植物も人間も自分も守られている、活かされている喜び、という非言語的な実感、感覚は、3歳までの子どもが持っている実感(ファンタジー)と言われています。個人の「意識」が、社会に適応すべく発達していく(させられていく)中で、これらの実感は無意識に降りてい口のでしょう。
マタイ福音書18章に記されている、イエスの語り「一番偉い人」(神に喜ばれる人)とは、幼児期にあった“守られ活かされている喜び”を持ち続けている人を指しているのでしょう。集団や社会システムに適応しにくい、自閉症と名付けられる子どもたちの多くが、手のひらをヒラヒラさせると言われていますが、幼児期の実感、光秋の変化や風の囁きや自然の美しさや面白さ、動植物と出会った感動を、視覚的に心に再現している、世界と対話している所作だと言われています。私が出会った子どもの中には、手のひらのヒラヒラの代わりに体全体を揺らしている子どももいました。
大人に上昇するための「意識」を、言葉とともに発達させる中で、西洋人はより強い自我を育て、自然を対象化し、一つの神のもとにまとめ(一神教)、自我を中心に、知的に分析し利用する傾向があり、それに対して、東洋人は多様な自然を先に感受し(多神教)、その中にそれと調和する自我を見出そうとする傾向があるようです。
現代の、西洋的な自我を育てる教育の中で、多様な自然・天然から守られている自我と、自分を見守り守ってくれている聖霊、「守護天使」を取り戻すためには、宇宙の中心である唯一onlyの神という認識とともに、木の葉一枚一枚や微生物にも宿る全体allの神を見出していくこと、唯一神信仰と多神教との調和が今、求められているように感じています。
二日前に神戸市で、オペラ「森は生きている」を観ました。本日のテーマに繋がっていると感じ、観劇記を読ませていただきます。
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手塚治虫の短編集の中に「森は生きている」がありました。若き台本作家が、登場する12の月の精たちを、若者ウケする、ロボットや宇宙戦士などに変え、スペクタクルな作品にしようとしますが、反対され、古くさい舞台構成に思われても、マルシャークの原作に沿った、子どもの眼で見ることができる、精霊に満ちた森が舞台であることが、子どもの眼に映る被造世界と、一つ一つのいのちへの、神からの祝福を現していることに、若き作家も最後には気づく、というストーリーでした。
林光氏のオペラ台本、即興的なピアノ音楽、十二人の役者、歌、1月〜12月までの時の精たちの動き、動物たち、それら全てが、小さな子どもたちにも、子どもの心を持った大人にも、共鳴を引き起こす緻密な構成だと感じました。
女王と継母の欲望に翻弄され、4月のマツユキ草を12月に摘みに行かされる娘は、「生きにくさの極みにある小さき者」、社会に翻弄されている弱者の象徴でもあるのでしょう。森では年末から新年へと森の精のバトンタッチが行われる祭り(本来のクリスマス)の最中であることと、森の精からの、季節を一時的に4月に変え、娘にマツユキ草を摘ませるプレゼントと、歌声の中で繰り返される“燃えろ”の言葉が、寒さに凍え、死を覚悟している娘に「生きよ」のメッセージとともに、生きるための温もりが伝わった、と感じました。ただ、あえて注文をつけるとしたら、1月から12月のそれぞれの森の精たちの、天候や動植物の季節的な個性(花の咲く時期など)を表現してほしかった、と感じました。
売られていたパンフレットで知ったことですが、第一次大戦後のロシアで、子どものための戯曲を書いていたマルシャークの作品が、行政府からナンセンス童話、くだらないファンタジーとして出版禁止になったとき、ゴーリキーが「これこそ小さな人たちのための大きな文学である」と反論し、援護してくれた、とありました。おそらくゴーリキーは、マタイ福音書18章1-6節の「心を入れ替えて子どものようにならなければ決して天の国に入ることはできない。この子どものように自分を低くする者が天の国ではいちばん偉いのだ」を引用して、“オトナたち”の説得に回ったと想像します。
人の一生を60年、それを5年毎の12ヶ月と置き換えれば、5歳までが一月、いわば幼少期が、天の光・風の歌声・動植物の動きや息吹などをダイレクトに感受する時と言われています。
自閉症と診断される子どもたちの一部が、手のひらをヒラヒラさせるのは、光や風や動植物の輝きや感受した感動を再現しているようです。この娘は二月、10歳までの少年期でしょうか。
現代、15歳まで(とは限りませんが)の子どもたちの抱えている閉塞感、生きにくさと、自殺数の増大、出生率の低下が大きな問題になっています。今という時は、生まれ、活かされている神様からの祝福や、守護の天使が見つけにくい、感じにくい“極寒の時代”なのでしょう。
私も12月の60歳をとうにすぎた爺ですが、“森は生きている”のような作品を通して、天からの恵みと祝福を取り戻し、4月、二十歳までの子どもたちに伝えられたら、と思わされた観劇・感激?でした。
先週の出来事
週末、岸田首相に爆弾? 殺傷能力の低い、手製の大きな爆竹のようなものが投げつけられた事件。投げたのは24歳とのこと。安倍首相襲撃事件のような、対象に対する怒りや犯行の計画性は感じられませんが、捕まることも想定した、自滅願望、そのための巻き添えを選んだ結果だと感じます。 おそらく、木村容疑者のような、生きにくさと、その原因である社会全体に恨みを持ちながら、自滅願望を持ち続けている10代や20代はとても多いと感じます。こんな現実に対して、為政者たちは、「警備」「取締り」「重罰化」くらいしか思いつかないのでしょうね。