20230409 復活節第一主日 イースター礼拝 終末・復活・再臨とは

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本日の聖書箇所

マタイによる福音書27章 50−52節
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

マタイによる福音書 28章 10節
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」

マルコによる福音書16章 12節
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。

マルコによる福音書 16章 14-15節
その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

ルカによる福音書 24章 13−16節
この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

ルカによる福音書24章 31-32節
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

宣教要旨「終末・復活・再臨はすでに」

“(聖俗を隔つ)神殿の幕が裂け、地震が起き、岩が裂け、聖者が復活した”というのは、イエスの肉の滅び(十字架)と共に終末が起こったという初期キリスト教の実存的理解の表現です。すなわち、イエスを信じた人々にとって、イエスの十字架は、世の終わり、終末の出来事そのものたっだわけです。“終末”はここで起こったのです。

 最初に復活のイエスに出会ったのはマグダラのマリアであり、他の仲間たちにガリラヤで会おうと伝えました。仲間たちは(ここでは“弟子”とは言わず、仲間たちと表現します)、それぞれの道行きで、心の目でしかわからない、紛れも無いイエス自身の魂、復活のイエスに出会ったのです。イエスの復活、再臨はここで起こったのです。

 復活のイエスと共に仲間たちがする食事は、最後の晩餐からの連続した食事であり、今日、礼拝の中で私たちがイエスから受け取り、いただくパンと盃も、復活のイエスと出会い、再臨を確信した仲間たちとの食事に、私たちも参加していることです。

 ガリラヤから(イエスと最初に出会った場所から、と言う意味です)新たに始まったイエスと仲間たち(肉をまとった者たち、肉体を脱いで聖霊となった者たち)の旅は、この世の時を超え、世界中、地の果てまで派遣され、全ての被造物世界の、いのちの主なる神との調和(平和)、いのちへの祝福を回復すべく、これまでも、これからも続いているのです。

 人間は自己や、自分たちのセクトや、自分たちの国家を中心にして、世界を理解したがる我田引水な存在です。民族(例えばイスラエル)のみの国家繁栄・地上天国を求めたり、信仰セクト(例えば教団)のみの天国を求めたり、自分たちの考える天国・地獄の審判基準を作り出したり、世の大変革・革命や、世に対する失望の延長線上に、聖書を利用して、将来に訪れる終末論を描いたりします。
 自分たちを中心として、キリスト教の選民思想、終末思想、心霊復興(リバイバル)などがセクト毎に編み出されます。仏教の始まりである釈迦は、死後の世界や、世の終わりについて、“無記答”(語ってはならない、書き記してもならない)と答えましたが、仏教の末法思想、三千大世界も同様なのでしょう。

 自分や自分たちの思いに神の行為を従わせようとする人の傲慢をイエスは裁かず、「心を尽くし力を尽くし全身全霊で主なる神を愛すること、隣人を自分のように愛することこそ神の国に近づくこと」と教え示した復活のイエスが私たちの前を歩んでくださる。生死を超えてともに歩ませていただきたいと願います。

先週の出来事

統一地方選という「政治ゲーム」が始まっている。個々人の思いとは関係なく、政党バランスは変わらず、変えられず、保守本流、保守支流の多少の違いはあれ、おおかたの組織票への根回しは終わっており、既存の社会システムの「利権」に競って群がろうとする構造は何も変わらないのでしょう。この国の住民の多くが「国畜」状態に誘導され、一人一人が“政治の主人公”などとは感じられないし信じられないまま、利権と政治セクトに従う組織票以外は動かないのでしょう。濁流の流れは変わらず、その結果、組織やセクトに従う社会的強者と、何も持たない、どこにも属さない社会的弱者の隔たりはますます大きくなり、「ただの、ありのままの個人」が更に生きにくい時代に向かうのでしょう。今こそ、世のしんがりに立たれる主を求めたい。

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