20230423 東淀川教会 宣教要旨「イエスの重さ」詩篇17章14節 マタイ福音書23章13節 マルコ福音書10章15節

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聖書箇所

詩編17編 14節
主よ、人々から、あなたの手で。/人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。/あなたがかくまった人に/十分な食べ物を与えてください。/子どもたちも満ち足り/その幼子たちにも豊かな富を残せますように。詩編17章14節

主よ、あなたの御手で、この世の人々から、あなたがかくまった人々に、十分な食べ物を与えてください。子どもたちも満ち足り、その幼子たちにも、豊かな富を残せますように。この世は彼らの人生の分け前です。(意訳)

マタイによる福音書/ 23章 13節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。✝

あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で神の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか,入ろうとする人々をも入らせない。(意訳)


マルコによる福音書/ 10章 15節
よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

アーメン。子供のように神の国を受け入れる人でなければ,決して そこに入ることはできない。(意訳)


クリストファー(クリストフォロス)聖人伝説(カトリック教会 正教会その他)
「河を渡りたい子どもを助けた人」

 クリストフォロスはもともとレプロブスという名前のローマ人だったという。別の伝承ではカナン出身でオフェロスという名前だったともいう。彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を問うた。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案した。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めた。
 ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言った。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねた。男の子は自らがイエス・キリストであると明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのである。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた。

宣教要旨「イエスの重さ」

宣教要旨『イエスの重たさ』
旧約聖書には盲人とか聾唖者とか、その見た目の特徴を表す言葉はあっても、ひとくくりにまとめるような「障害者」のような乱暴な概念は見当たらない(障害者解放運動を担った先人の言葉 “障害者という人間はいない!”の言葉を思い出します)。今日取り上げた詩篇もですが、福音書(初期キリスト教)では、特にイエスの言葉では、いわゆる“社会的弱者”は、神が守り世が守るべき小さき者(小さくされている者)が“子ども”という言葉に含まれていたと思われます。自然から与えられ産出される食べ物はまず小さき者の取り分であり、それが与えられますように、と祈ります。(詩篇17:14) (※仏教の地蔵菩薩にもつながる祈り)

 イエスの厳しい攻撃的な言葉「あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で神の国を閉ざすからだ。自分 が入らないばかりか,入ろうとする人々をも入らせない。](マタイ23:13)は、神が先ず与えようとしているものを、与えないばかりか、奪っている!」という、「おとな」(権力者・指導者・世のシステム)社会への強い非難が感じられます。

「よく言っておく」から始まるイエスの言葉は「アーメン。私も言う。・・・」と言うニュアンスだったと感じます。ユダヤ教では、指導者などの祈りがあり、それに続いて、人々が「そのとおりです」と言う意味でアーメンを唱えます。その、最後に来るべきアーメンを、イエスが最初に持ってきたのはまさに型破りであり、既成の礼拝に対する「冒涜」でもあったのでしょう。「神の言葉、福音がはじめにあるのだ。それに対してアーメンを唱えてから、わたしは語るのだ」というニュアンスがあったと感じます。
ユダヤ教の、日々の祈り(シェマ、聴け)に「食べ物をください」以下を付け加え、「主の祈り」としたのはイエスでした。“五つのパンと二匹の魚”に伝わる奇跡物語は、神がまず「小さき者」に与えた食べ物を取り戻す、繰り返された、イエスとその仲間たちによる「神の国運動」(社会運動)だったと理解できます。それは“小さき者にも食べ物を与えよう”の運動ではなく、神がまず“小さき者”にこそ与えている食べ物を与えよ、の祈りであり、それは同時に、強者が弱者に恵みを与える、という世のシステムを根底から揺るがす活動でもありました。

 神をアッバ(ちゃん!)と呼んだこどもイエス。そのイエスが背負った(背負わされた)小さき者のための重荷、十字架を、少しでも背負おうとしたクリストフォロスが、その背中で、イエスのトンデモナイ重さを背中で感じた、というクリストファー(クリストフォロス)伝承。イエスの重さをあらわした人、イエスの弟子として語り伝えられています。

ヒエロニムスのクリストフォロス (正教会系キリスト教)

ハンス・メムリンクのクリストフォロス(kトリック教会)

 

先週の出来事


西宮市市議会選挙の投票。あたりを見回すと、連れ立って挨拶をしならが投票している姿が多かった。おそらく70〜80%が、何らかの組織票なのだろうと感じる。組織にとっての支持政党、候補者はすでに決まっており、一個人の判断による投票割合はとても少ないのだろうなと感じる。せめて、多くの人が関心を持っているだろう100項目くらいの公開質問を新聞社が絞り込み、それに対する立候補者一人一人の答えが新聞などで報道され、それに基づいて一人ひとりが候補者を選ぶ、そんな、実は当たり前のシステムが実現しないかなあ、などと思いながら投票を済ませました。やはり無理なんでしょうねぇ。

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