東淀川教会20180722礼拝列王13:1-3マタイ7:15-20宣教題「言葉だけで信じない」司式:金田恆孝
旧約聖書 列王記上
見よ、神の人が主の命によってユダからベテルにきた。その時ヤラベアムは祭壇の上に立って香をたいていた。盗_の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。唐サの日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』13:1-3
彼はその人に言った、「わたしもあなたと同じ預言者ですが、天の使が主の命によってわたしに告げて、『その人を一緒に家につれ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言いました」。これは彼がその人を欺いたのである。13:18
こうしてその人は立ち去ったが、道でししが彼に会って彼を殺した。そしてその死体は道に捨てられ、ろばはそのかたわらに立ち、ししもまた死体のかたわらに立っていた。13:24
マタイ福音書7章15-20節
唐ノせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。唐なたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。唐サのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。痘ヌい木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。唐アのように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
宣教題「言葉だけで信じない」
エリヤより先に「神の人」と呼ばれた預言者(神の言葉を預かる人)がいました。サウル、ダビデ、ソロモン王のあと、国は北イスラエルと南ユダ王国に分裂しました。北イスラエルの王、ヤロブアムは北イスラエルの人々が南ユダ王国のエルサレム神殿にたびたび巡礼ででかけるので、北イスラエルのベテルとダンに神殿を設け、金の子牛を置き、崇拝させ、北の人々の信仰を引き留めようとしました。この王のとんでもない行為(金崇拝)に、神の怒りの声を伝えたのです。王はこのヤギの革を着た「農夫」をもてなして懐柔しようとしましたが、彼はそれを断り、王の前を去ります。主なる神に用いられている間は、「あちら側」のもてなしに応じて飲み食いしてはならない、というタブーを守っていたからです。彼が王の元を去り、南ユダに帰ろうとしているとき、北側の預言者、神に仕える者と名乗る老人が彼に近づき、「あなたをもてなせ」とのお告げがあったので、我が家で飲み食いし、体を休めてください、と申し出て、彼はその老人の言葉だけで信じ、家に行って飲み食いのもてなしを受けてしまったのです。翌日、ロバと一緒に旅立ったが、荒野でライオンに襲われて殺されてしまった、というのです。
自分の意志や力によるのではなく、聖なる力(精霊。神の御心)に用いられてる人、預言者たちは、用いられている間、なにか自分自身に対して「○○をしない」「△△を口にしない」「手かせ足かせを身につける」など、タブー、禁止事項を自分に課したり、特別な義務を自分の体に課したりすることが多いのです。自分の弱さやエゴや誘惑を克服し続ける、それが自分の心と体を聖なる主に用いられてるための重要な条件なのでしょう。仏教で言えば、絶対的な他力に自分自身を委ねていく、ということなのでしょう。刀@王の元を去り、疲れて帰る途中、同じように「神に仕える者」という老人から、我が家で飲み食いし、休んでいってください、それが酒のお告げ、御心です、と誘われて心を許し、飲み食いの饗応に応じてしまった。その結果、故郷や我が家に戻れず死んでしまった、とあります。
本日のマタイによる福音書7章15節。上記の「神の人」は偽預言者(神に用いられてはいない者)の、言葉だけの誘惑に負けてしまった。彼がまことの聖なる神に用いられているか否かは、その行い、全体の姿から知るほかなかったのですが、言葉だけで信じ、自分に課したタブーを破ってしまったのは、役目を終えた安堵感もあり、疲労、空腹、喉の渇きなどの苦しさから誘惑に負けたのでしょう。刀@これこそ聖なる神の御心と信じ、身も心も委ねる、何かと戦う者は、この「厳しさ」から逃げられない。かつ、相手を見極めるために、良い果実を実らせる良い木かどうかを見極める努力が必要なのでしょう。人を言葉だけで信じたがる日本人の特性。気をつけましょう。
○先週の出来事
西日本豪雨災害に伴う死者は15府県で225人。行方不明13名。更にこの暑さによる熱中症で21日10人の死亡が確認され、16人が意識不明の重体。もはや日本全体を大きな病院にして、みんなが患者になれるシステムしかないのかも。