監獄・死刑問題について

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  東淀川教会にはこれまでの牧師や教会員が獄中者支援、死刑廃止運動にかかわってきた歴史があります。これからもこの課題を微力ながらかかわり続けたいと願っています。

『死刑の目的、死刑制度を維持し続ける理由は何でしょうか』

現行の死刑制度が設けられたいちばん大きな目的は、外患誘致罪などを持ち出すまでもなく、明らかに『国体の安定』、国家にとっての危険分子を排除することが第一目的です。ひとりの生存権よりも国体の安寧を優先する、国は国体や社会全体にとって危険な人を除去する権利を多くの国民から与えられてる、という考え方は成り立ってはならないと思います。

死刑』は刑罰の「罰」でしょうか?

本来の刑罰の意味は、加害行為者に刑罰を与えることで、加害行為の反省を促し、罪の自覚を持たせ、生きて償わせることを目的としている。死刑制度そのものが刑法の本来の目的から逸脱している。「死刑」執行によって犯した罪が消えることはなく、死体が増えるだけです。

死刑制度に反対、というのではなく、そもそも死刑という刑罰は成り立たないし、戦争が勝つために殺し合いという犯罪であるように、死刑もいのちを『処分』の対象とする犯罪です。

 現代の親から子への、とても大切な「教え」にはどんなものがあるのでしょうか。子に伝えたい 親が考えている「人間の条件」を子に伝える場面は、いろんな成り行き、ふとしたきっかけの中でけっこうあるように思います。
「何があっても どんなことがあっても どんな人であっても ぜったい人を殺してはいけない」という「戒律」を子に伝える親は こんにち、どのくらいいるのでしょうか。

 あるいは、さまざまな危険や恐怖に取り囲まれていて、自分や自分たちを守ることに必死になっている現代ならば、子に対して「あなたは決して殺されてはいけない」という戒律なのかも知れません。

「死刑」という重たい言葉、キーワードに子どもたちが触れるのは、暗くて、重たい事件の報道、「罪のない」「弱い子どもや人間たち」が殺された、などの被害のビジョン、それについての裁判などの情報とともに心に刻まれるキーワードだと思います。

 刀で殺し合うとか、集団で殺し合うとか、太平洋戦争までのリアルなイメージは、ほとんどの人は持ち合わせていないのでしょう。現代では世界各地の戦争、虐殺、死体などの映像は、戦場報道でもカットされています。リアルな現実から私たちは排除されています。
記録映像などを除けば、現代で最もリアルなイメージは「死刑」なのでしょう。  

死刑は罰か?」これは、憲法の条文や、様々な知識や、一般常識や、慣例や、宗教や思想信条などや、それぞれが置かれている社会的立場なども含めて、それらをいったんわきにおいて、ひとりひとりが問い直すべき、問い直されるべき根源的ななテーマであり、大人や子どもの区別なく、いわば、おとなにも子どもにも通じることばで問い直し語り合うべき「人類共通の普遍的な疑問文」だと思います。

悪いことをしたら罰が与えられる とっても大きな悪いことをしたなら罰として命を奪われる だから正義が保たれる」そう信じているおとなはどのくらいいるのでしょうか。
「悪いことをした責任をとる」「被害を弁償する」「行った悪いことを普遍的な罪として理解させ悔い改めるために罰する」「被害者の痛みを具体的痛みとして感じさせる」などなど、罰の目的、罰の程度などとともに、意見を交わしたり理解を共有し深めたりすることは可能でしょう。が、「罰として殺す」「存在を消す」「生まれてきたことを否定する」「死体をつくりだす」ことが「罰する、罰を与える」ことになるのだと、はたして理解し合えるでしょうか。おとなたちはこどもたちにその正当性や意味を教えることができるのでしょうか。 本質的に理解できないし納得できないし教えられないはずです。

 現在の死刑制度は、「多くの国民の同意」を根拠として、執行されています。
多くの方々の「無言の同意・賛同」が「死刑」を執行させていることになっています。いわば「死刑を執行させている」同意している、乃至は黙認している責任から逃れることはできない仕組みになっています。
「死刑」について話し合ったり考えたりするとき、この根源的な問いをはずすことはできません。
「あなたや、わたしは、罰として人を殺すことに同意しますか しませんか」の二択問題です。

 人によっては、「悪いことをしたら腹を切るべき」「自殺して責任を取るべき」と考える人がいるかもしれません。
 人によっては、「本人が責任を取って自殺すべきだが、それを代行するために死刑は必要だ」と考える人がいるかもしれません。
 人によっては、「かけがえのないひとを殺されたこころの深い悲しみや苦しみが癒やされるために、加害者がこの世からいなくなる死刑は必要だ」「死者の無念さと、生き残ったひとの無念さが軽減されるために死刑は必要だ」と考える人がいるかもしれません。

 ひとりでそう思っているのではなく、確かめる必要があると思うのです。その考えは、世代や性別を超えた、こどもたちを含めた多くの人々と理解し合える考えなのか。また、犯罪被害者や、大切な家族を奪われた人の意見など、本を読んだり調べたりしてほしいのです。ひとは勝手に思い込んでいることはいっぱいあるのですから。

 ひとは誤って、過失で他の人を殺してしまうこともあります。自分や大切な人をを守ろうとしてひとを殺してしまうこともあります。怒りのあまり自分を抑えきれなくて、相手を殺してしまうこともあります。自分勝手な目的を果たすために人を殺すひともいます。「自分は絶対にそんなことはしないしありえない」と思いたいのも人間です。

 許し合ったり和解し合える道は限りなく遠いとしても、希望までは否定すべきではないと思います。 
 過ちを認めること。罪を自覚すること。謝罪を続けること。罪をつぐない続けること。
 どれも「生きて」しかできないことです。それらすべてを不可能にしてしまう、それが「死刑」だと思いますが、どうでしょうか。

 「戦争」も「死刑」も人殺しだとわたしは考えます。昨今、国家間の緊張が高まり、軍事演習などがおこなわれていますが、たとえ現実が80年ほど前と同じ戦時下となって、「敵側の人を殺すことは正義」という狂気にふたたび戻ったとしたら、やるかやられるかの切迫した状況になったとしたら、「わたしは武器を持つのか」「正義の殺しはあるのか」「わたしは必要に迫られたら人を殺すのか」 
 ひとりひとりはこの問いから逃げるべきではないし、逃げられないはずです。わたしたちひとりひとり逃げないことが戦争をくいとめる道だと思います。

 次回は、なぜこの国に、刑罰として死刑が残っているのか、いまも執行され続けているのかについて問い続けたいと思います。読まれた方のご意見をお聞かせくださったら幸いです。2023/10/23 更新