東淀川教会20180610礼拝イザヤ58:2-7マタイ6:16-18主題「断食しろとは言っていない」司式:金田恆孝
旧約聖書 izaya イザヤ書58章2-7節
彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。主に受けいれられる日と、となえるであろうか。わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
新約聖書 matai マタイ福音書 6:16-18
Moreover when ye fast, be not, as the hypocrites, of a sad countenance: for they disfigure their faces, that they may be seen of men to fast. Verily I say unto you, They have received their reward. But thou, when thou fastest, anoint thy head, and wash thy face;
that thou be not seen of men to fast, but of thy Father who is in secret: and thy Father, who seeth in secret, shall recompense thee.
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
宣教題「主は断食しろとは言っていない」
紀元前の昔から「ともに神に祈る」儀式は発生していたし、罪を告白する、懺悔する、悔い改める、自分自身を戒める、自分を罰する、などの思いから、「断食」する行為は自然発生的に各宗教の、各個々人の中で行われていた。ゾロアスター教、ユダヤ教、正教会、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教など、宗派を問わず、あった。
そこに共通しているのは、「断食」が、守らなければならない儀式、信仰を続ける上で不可欠な義務としてあるのではなく、あくまでも各々の個人の内側から自発的に発生し、行われ始めたものと思われる。イスラム教に於けるラマダーンなどいっせいに行う習慣もあるが、違反をとがめるなものではなく、あくまでも各々の自主性に委ねられている、自然発生的な、個人的な「行為」として、自分自身へのけじめとして、或いは固有の課題として行われていたように感じられる。
それがいつの間にか、神への応答の儀式として、或いは、みんな守らなければならない戒律として義務づけられるようになり、「これだけ断食をしているのに、なぜ神は聞き届けてくださらないのか」などの祈りに見られるように、「神との取引条件」化してしまった「断食」の姿がある。
自分自身が生き方を変えよう、これまでの生き方をリセットしようとしたとき、断食によって心と身体とをまとめてリセットしようとする行為は、野生動物が洞穴で疾病から回復しようとする姿に近いと感じられる。
マタイ福音書のことばは、「あなたが勝手に行う「断食」を自分の信仰のPRに使うな。」という意味であり、「頭に油して顔を洗え」とは、きちんと身を整えて、空腹であることを周囲に悟られるべきではない」というメッセージだと思われる。
理解し合うこと、理解されることを求めたがる弱い私たちではあるが、反省とか悔い改めとは、他者に理解されるべきこととは異なる。ましてや、信仰の証明、神と取引する条件などになるはずもない。隣人に理解されることを求めない強さが欲しい。
○先週の出来事「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」とはどこかで野垂れ死んでいて、身元不明なまま行政によって遺骨化され忘れられていく人々であり、年間の自殺者数とほぼ同じくらいの統計数になるとのこと(官報に記載)。ニュースにすらならない数多の「死」が私たちの身近にあって、殆ど見向きもされていない、見向きもしていない現実にあらためて心が痛む。