東淀川教会20180902 礼拝 申命記6章 マルコ福音書12章29-31 題「イスラエルとは誰か」司式:金田恆孝

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

創世記32章 申命記6章
その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。(創世記32:28)
And he said, Thy name shall be called no more Jacob, but Israel: for thou hast striven with God and with men, and hast prevailed.

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(申命記6:4-5)
Hear, O Israel: Jehovah our God is one Jehovah: and thou shalt love Jehovah thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy might.

マルコ福音書12章29-31
イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
(マタイ福音書22章37-40も同様)

12-29 Jesus answered, The first is, Hear, O Israel; The Lord our God, the Lord is one:
12-30 and thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind, and with all thy strength.
12-31 The second is this, Thou shalt love thy neighbor as thyself. There is none other commandment greater than these.

 

「イスラエルとは誰か」
間違っちゃあいけない。「イスラエル」とは元来、国名なんぞではない。混同しているところに現代の悲劇がある。
「イスラエル」の名は、族長ヤコブが世における己が絶望的な運命において、全身全霊で神と取っ組み合った結果与えられた名。言い換えれば『神と向き合い、神に問い、命がけで神と戦い、神の祝福のみを求める者』というニュアンスであろう。「信仰」とは、つまるところ、そういう生き方・生かされ方なのだ。決して「黙って黙々と服従する人」というイメージではない。
申命記の核心的な箇所。ユダヤ教で日々繰り返される「シェマ・聞け、イスラエルよ」から始まる祈り。「われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:4-5)とは、まさに“全身全霊”で神と応答・格闘する姿である。ちなみに「愛」とは、祝福を求めることである。
イエスはこれを第一の法とし、第二の法として『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』を加え、これ以上の重要な法はない、と告げられた。
神道にも仏教にもユダヤ教にもイスラム教にも「日々の祈り」に相当するものはある。ユダヤ教にはこの申命記のシェマに始まる「祈り言葉」はある。が、主イエスが語ってくださった、二つの最も大切な律法についての「日々の祈り」に該当する、インターナショナルな「唱え言葉」「歌」が見当たらない。ヘブライ語でもアラム語でも、ギリシャ語でもかまいませんが、「シェマ」から始まる、誰でも歌える、唱えることのできる短い祈りをどなたかご存じないでしょうか。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です