20190414 東淀川教会礼拝 

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2019年4月14日 棕櫚の主日礼拝

旧約聖書  創世記21章14-18節
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。

新約聖書 マタイ11:16-17
今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
マタイ11:25-27
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
聖書から聴く 主題「大人のことばはいらない」

 

女性による、子を求めること、授かること、守り育むこと、失うこと、にまつわる「願い・喜び・悲しみ・怒り・忍耐」等々の激しさ、凄まじさは、男性には理解を超えるもの。うかつに立ち入れないもの。
うまずめ(石女)の「ことば」が産めた女や男たちから産めない女に投げつけられる。投げつけられた一人がサラだった。アブラムの跡継ぎのため、召使いの女を夫に与えたのもサラだった。アブラムの跡継ぎを産んだハガルが、跡継ぎの守護者としてふるまい、サラに遠慮しなかったことも、ハガルの勝者的ふるまいや、ハガル、イシュマエル、アブラムの三人が笑い合っている姿がどれほどサラを苦しませ続けたかも想像に難くない。サラがハガルを虐め続け、やがて子を諦めていたサラ90歳に子が授かったとき、辱めから救われたサラはハガルとイシュマエルを虐め追い出す。15歳とはいってもまだ子どもだったイシュマエルを病が襲う。不幸のどん族にあって母は息子の死を直面しきれず遠く離れて泣き続ける。どん底の嘆きを聞き届けた神はこの母子を救う。
「立場の異なる当事者」同士はどうしても競い合い、争い、悲惨な被害が生み出されやすい。しかし、怒りを和らげ悲しみを分かち合ってくれ、喜びの時には心から笑い合えるる仲間がずっといてくれたら、人間の愚かさゆえに生み出される被害は、最小限に抑えられていくのではないか。そのためには、理性的な大人の言葉や政治や法律や警察や裁判所が必要なのではなく、損得抜きに友達でいられる「こどものこころ」に勝るものはないのだろうと思う。
○先週の出来事(気になるニュース)
年号とともに時代が変わる、という幻想が、商売の景気づけのようにまき散らされている。政治と宗教は利用し合ってはならない、との原則が政教分離。その戦後民主主義の大原則すら消えかけている。

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