191201 宣教要旨 旧約聖書の「いちじく」箇所 マルコ福音書11:16 「比喩でしか記せないこと」宣教 金田恆孝
雅歌:2章:13節 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
イザヤ書:38章:21節 イザヤは言った、「干いちじくのひとかたまりを持ってこさせ、それを腫物につけなさい。そうすれば直るでしょう」。
イザヤ書:5章: 1節 わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。
イザヤ書:5章: 2節 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。イザヤ書5章7節 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。イザヤ書8 わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。
マルコ福音書 11章11-16節
11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
聖書から聴く 宣教要旨「比喩でしか記せないこと」
主なる神が奴隷だった人々をカナンの地に招いたのは自然との調和、同胞人や異邦人との平和、弱者・のけ者・疎外者を生み出さない社会を望んだ。それは入植したイスラエル人の希望であり、神に生かされる喜びであり、それは「ブドウ畑とその下のイチジクがたわわに実っている風景」として繰り返し語り継がれてきた。
いつの間にか「強い国家」や物質的な豊かさを求め、神に生かされる姿を失い、よそ者や弱者を踏みつけるイスラエルに変わってしまった。
「神がイスラエルに望んだブドウ畑、イチジクの樹を誰が滅ぼしてしまったのか、について、イエスたちは歴史を遡り、或いは為政者たちや、「えらい人々」に向かって、その神に背いた行為、罪を具体的に語り明らかにしていったはずである。それは単に神殿体制だけではなく国家の存立を危うくしかねえない運動になりかけていたと思われます。だから公開で処刑された。
予言者たち、そしてイエスたちが繰り返し警告し、批判し、悔い改めを求め続けたにもかかわらず、根底から悔い改められなかったイスラエルは国を失い、ディアスポラ、流浪の民として世界中に散っていった。
「国家に固守したからこそ我々イスラエルは主なる神によってのみ生かされ生かし合い、神の栄光を表す道を見失った。主によって散らされた。だから主なる神が世界を一つにしてくれるときまで、私たちイスラエルはディアスポラのままでいるべきである」とは、イスラエル国家樹立運動、シオニズム運動に反対し続けているユダヤ教の一派のメッセージであった。
因みに、古代パレスチナではブドウ畑の上部でブドウの栽培、地表でイチジクの栽培を行うことが多かったらしい。また、上のブドウを女性の乳房、下のイチジクを睾丸、つまり子孫繁栄に喩え、『産めよ増えよ地に満ちよ」との神さまからの人間に対する祝福のことばをおおらかに感謝しつつ受け取っていたようです。そんな「おおらかさ」を現代人は、いつ、なぜ、失ってしまったのでしょう。
先週の気になるニュース
連続幼女殺害事件で2008年に死刑で殺された宮崎勤氏。その彼が、女性や幼女にいっさい性欲を感じることなく、自慰行為もなく、性的興奮も経験したことがなかったことを最近知った。鍵を握るのは、彼の子守として幼児期から大人になるまで宮崎のそばに居続けた人。かれについて調べたいと思っている。