020年5月31日聖霊降臨節ペンテコステ礼拝イザヤ書6章6~12節 使徒行伝2章1-17節 宣教テーマ「国境がなくなる夢」
イザヤ書6章6~12節
6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。11 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。
使徒行伝2章1~17節
1五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2:2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。2:3また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。2:4すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。2:5さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、2:6この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。2:7そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。2:8それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。2:9わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、2:10フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、2:11ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。2:12みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
2:14そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
2:17『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
「国境がなくなる夢」
聖霊降臨という、神が世々の人々に働きかけられた大きな出来事は、一回性のことではなく、何度も起きたできごとだった。イザヤ書6章が伝える、セラフィムを通して示されたイスラエルの民への「裁き」も聖霊降臨の出来事であり、軍事力や経済力に依存し肥大し傲慢になった彼らが長い年月をかけて裁かれ、まことの悔い改めに向かうために欠かすことのできない出来事であった。
神の国を伝えたイエスの処刑後、逃げ惑い、歩むべき方向も心の中心をも失っていた人々、群れが集い祈っていたところに聖霊降臨のしるしがあった。肉体を失っても復活し生きてともにいてくださるイエスを確信し、イエスを我と世の救い主キリストと言い表すキリスト教の始まりだった。遊牧民の歴史を背景に、神とともに歩む民たちは、宗教集団を確固たるものとして組織の拡大に努めることが主眼ではなく、選民意識を捨てて「神の国」の宣教を復活のイエスとともに述べ伝え続けることが中心だったはずである。
もはやユダヤ人も異邦人の区別もなく、聖霊が語らせるままに、それぞれが各々のことばで神の国について、神の働きについて語りだし、お互いがそれを理解していたと伝えています。それは民族の違い、国の違いがすでに乗り越えられている、国境が乗り越えられ消されていくしるしであった。ペテロが聞いた神の言葉。この歴史の行き着く先に、新たに聖霊降臨が起こる、と。それはすべての人に降り注がれると。ここにいる人々の子孫は神の言葉を預かって語り、若者は神の描く展望・ビジョンを心に描くことができ、老人たちは更にその先の神とともにある夢を見ることができる、と。
それらはいわゆる帝国主義も資本主義も共産主義も社会主義も民主主義も、人類の体験と願望や知恵が生み出した様々な思想、「共同のビジョン」をも超える究極の展望なのだろう。
神の国に近づく大きなしるし。それは生物・人間の設定した国境が消えていくこと。人々が自分の意思で自由に移動し交流し、混じるようになることなのだろう。
ひとは どこかの国家から、国民として守られるべき、という国家幻想が淘汰されていけば、国家という箱船から下りた人間が「難民」になるのなら、そこにペンテコステが起こり、互いが理解し合う、互いが生かし合う「神の国」が始まるのではないか。
先週のでき頃
ようやく人同士の距離を測りながらも外に出られる状況になってきた様子。小中学校も次の感染拡大を恐れながら、すこしずつ学校への登校を促していく様子。当面はマスクは必需品? マスクをするとお互いの表情がわからない。口元の変化が互いの識別と気持ちを読むためにどれほど重要であったかを再確認。四月入学の生徒たちは当面同じクラスでも互いの顔を覚えられないのでは?