2020年5月24日 創世記1章21-25節 ルカ福音書7章36-48節 宣教題【いのちを産み育てる人々】金田恆孝

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創世記121-25
21
 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

「こうだったかもしれない」

神は人類を創造した。人はすべて女で自分だけで子を出産した。子も孫もすべて同じ母の遺伝子を受け継いだ。同じ遺伝子が続くと病気や環境の変化に弱くなるため、神はひとりの娘xを眠らせ、あばら骨の一部を抜き取って傷口を塞ぎyを造った。xの元になる部分から茎を引き出し、熱に弱いyの元になる部分を外側の袋に入れ割れ目を縫い合わせた。xはyを誘いxとyを生むようになった。こうして女xの遺伝子はyを通して広がり混じり強く美しく様々な特徴を持った人類へと変化していった。やがて骨格の太いyが群れをリードするようになった。xたちはyに遺伝子を運ばせるだけではなく、たきぎを、食料を、しまいには守りと慰撫までも運ばせるようになった。骨太のyはyの遺伝を外に向かって広げるようになった。

ルカ福音書7章36-48節
7:37するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、7:38泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。7:39イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。7:47それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。7:48そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

宣教題【いのちを産み育てる人々】
メソポタミアの“イシュタル”“イナンナ”、カナンの“アシュトレト”、ギリシャ神話の、神々の母である“ガイヤ”、日本のアマテラスなどすべてが母から始まる神話は多い。遊牧民の場合は守備と交渉録に富んだ男性族長の場合が多く、神話も男性中心となりやすい。

 最近読んだ「できそこないの男たち」福岡伸一著に学ぶことが多かった(わたしの学びは周辺の人々よりかなり遅れているようだ)。 近年のDNA解析からわかってきたことなどとても面白い。生物学的には、人間はすべて女性から始まり、単性生殖から両性生殖になぜ変わってきたか、など“目からうろこが落ちる”納得を覚えた書。そこから創世記の“人間の始まり”を書いてみるとこんな感じになりそう。

 「聖書」を神が書いたものとして様々な角度からのアプローチや多様な解釈を許さない人々もいるが、信仰の名を使った“自己絶対化”だと思われる。

 旧約の背景も新約の背景も基本は男性中心主義に貫かれている。男女や同性の性関係も男が決める。それは現代のキリスト教世界にも貫かれている。ローマ法王を女性が務めることもないだろうし、日本キリスト教団女性議長も実現しないだろう。

 イエスはどうだったのだろうか。その一端をうかがえるのがこのルカ福音書の箇所でもあろう。ここで議論の対象になっているのは“姦淫の女”、娼婦、バイタと非難されている女性。姦淫の男は問題にもならないのだが。イエスの最も近くに「罪の女」がいる場面は多い。

“イエスよ、おまえは神の国云々きれい事をぬかしているが、体を銭で売っている罪深い女をそばに侍らせているだけではないか!”との「裁く側の人々」の攻撃に、イエスは逆に攻撃で応える。

 「彼女たちは男たちの保護も受けず、ちゃんと仕事をして対価を得ているのであり、しかも、おまえたちと比べものにならないくらい、人を愛し、人を慰め、支え、孤独から救ってきたのだ。裁きの時には、神は真っ先に彼女たちを赦し、解放するだろう。
おまえたちは多くの人を、高いところから律法を振り回して裁き、自分が愛せる人を少しだけ愛しているだけである。おまえたちこそ、まずまず許されないだろう。

先週の出来事
日本の現政権のリーダーの“日本を救う!”などの言動を見聞きすると、“私には神を救う責任がある”と明言していたかつての統一協会の文鮮明のイメージと重なる。いかなる批判も国民にとってのカリスマ的指導者に対する嫉妬か暴言にしか感じていない様子。批判に対して用意された原稿を読むのと、“嘘つき”“人間としてどうか”などやじを飛ばすのみ。国会はすでに議論の場ではなくなっている。

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