2020年5月17日復活節第六主日礼拝 出エジプト記12章 マルコ8章 宣教題「宗派と国家からの自由」宣教 金田恆孝

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出エジプト記1214-15節、39-40
14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
39 そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。
40 イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。

マルコ福音書814-17
8:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。
8:15そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
8:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
8:17イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。

宣教題【宗派と国家からの自由
 種なしのパンの祭りは過越の祭(ペサハ)に続く7日間の祭り。神がエジプトでの奴隷状態から解放してくださったことを覚え繰り返し心に刻む祭り。発酵していない薄くて堅いパン(行動食)で長い道のりを助け合いながら歩ききったことを長く記憶し続ける行事である。それは同時に、二度とイスラエル(神に導かれて歩む民)は食べ物や安全のために他国の奴隷とならない、という決意を持ち続けることでもあった。奴隷となって、強い王によって守られ、食べるものに困らなかったかつての祖先の犯した過ちを繰り返さないためには、食べ物や安全などの誘惑を断つためにも、断食や種入れぬパンなどを神から課せられた課題として、律法としてすすんで受け入れていったと思われる。

 マタイ福音書では「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」 ルカ福音書では「ファリサイ派のパン種」。マルコ福音書のみ「ファリサイ派とヘロデのパン種」となっている。各々の記者が何を敵視していたかが現れている。

 マルコ福音書の「ファリサイ派のパン種」とは、“律法を利用した独善的かつセクト的な選民思想”と言ってもさほど外れてはいないだろう。それは自らに課す「信仰のスタイル」というよりも「他者に課す信仰のスタイル」であり、「高い社会的地位・ステータス」の誘惑だった。

 もう一つの「ヘロデのパン種」とは自分や自分たちの利益中心の利己主義、現実主義の誘惑であり、現実の権力者に忖度し、依存し、自分や自分たちのエゴを満たす誘惑、と言って間違いではないと思われる。

 イエスやイエスの仲間たちがこの世の誘惑を避けるために禁欲的な生活を送っていたとは思われない。

 義人である条件、選民である条件として厳しい戒律・重荷を人々に強制し、自らは決して重荷を分かち合おうとしないファリサイ派はセクト的宗派的誘惑でもあった。ヘロデの誘惑は、その時代の権力、強い力に守られたい誘惑なのだろう。どちらの誘惑にも注意し、どちらの奴隷になってもならない、というのがイエスのメッセージだったのではないか。

先週の出来事
聖書の「ヘロデのパン種」と「現政権のパン種」が妙に重なって見える。ヘロデがローマの傀儡政権であり、現政権が米国の傀儡政権に見える。ヘロデが自分たちの私益拡大のみであったのと、現政権が支持基盤や友人への利益供与のみであることが重なってしまう。

 イエスはヘロデを「あの狐」と呼んだが、現政権の首魁はなんの動物に似ているのだろうか。いや、例えられた動物に失礼かも。

 

 

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