2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日礼拝 詩篇37編1-6節 ルカ福音書12章1-7節 宣教題「雀の値段」

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詩篇371-6
1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。

4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。

ルカ福音書121-7
12:1その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。12:2おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。12:3だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。12:4そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。12:5恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。12:6五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。12:7その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

 宣教要旨 テーマ「雀の値段について」

 371  「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを
起すな。
2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」

上記の言葉は、「すばらしい道徳」を教えているのではなく、奴隷状態にあったイスラエル民族に対する預言者の“解放への希望を見失うことなく、耐え忍んで生きるほかない!”という中心的メッセージに連なるものと思われる。
「悪をなす者」「不義を行う者」を、イスラエルの民がバビロンの捕囚となっていた時代の「奴隷として扱われていた状態」から読むと理解しやすい。
 奴隷状態から解放され帰還しエルサレム神殿を中心に再建されたイスラエル。その神殿にも売買される奴隷としての神殿娼婦、奴隷たちがいた。農地も働く場所も仲間も失って奴隷となった人たちもいたと思われる。

イエスの時代は古代ローマと傀儡政権ヘロデ王との二重支配のなかで人々は苦しんでいた。神殿娼婦だけでなく、ローマ側に買われた男娼、女娼もいた。
 「古代ローマ人の愛と性」(アルベルト・アンジェラ 河出書房)によれば、ローマ市民5400万人に対してあちこちから集められた奴隷の数はその三分の一もいた。その記述の中で、古代ローマ時代の著述家マルティアリスの記録に、性愛を楽しむローマの婦人たちが性愛の対象とした少年・男子奴隷が「雀」と呼ばれていたという記録がある。

 奴隷といっても商品として売買される奴隷から、身寄りのない者が他の家族に雇われ家事労働や仕事に従事する奴隷まで、さまざまな状態。レベルがあった。

 イエスの時代も売買されローマに連れて行かれた男女の奴隷はいたと思われるが、イエスの十字架から40年ほど経てから書かれた福音書の記者たちは、イエスの言葉としてそれに触れていない。イエスがそれに触れないはずはないと思う。
イエスは「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ福音書2131)と述べ、「罪深い女」(ルカ 736)と呼ばれていた娼婦を真っ先に受け入れ救い・解放へと招いた。


「つまづきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者のひとりをつまづかせるよりも、首に挽き臼を懸けられて海に投げ込まれるほうがましである。」ルカ17章 マルコ9章 マタイ18章
 地上の国は「弱い者・貧しい者」がおり、それを生み出している「強い者・豊かな者」がいる。来たるべき神の国では、役立たず、罪人、地の民(非人)、小さくされている者、この世の序列の最後尾にこそ神はいてくださる。人を躓かせる・差別化するこのシステムは地獄に投げ入れられる」というイエスのメッセージは、地上の「誰が神に近いか、誰が神から遠いか」についての神殿を中心としたユダヤ教の理解をひっくり返す暴言だった。
 その視点から「雀の値段」についてのイエスの言葉と、マルティアリスの記録を併せ読むと、これまでの解釈とはまったく異なるイメージが浮かんでくる。「娼婦として売買されている女奴隷だけでなく、男奴隷は雀と呼ばれ、“雀5羽で○○アサリオン”と同じようにおかねで売買されているではないか。」

 結婚の祭りは、一対の男女が、性的には排他的な一つの群れとなることを一族、親族の人々に対して宣言することであり、集まった人々はそれを承認し祝う重大なセレモニーだった。
 迫害される立場から逆に古代ローマ帝国の国教となってしまった後のキリスト教会は、(明治まではお寺が住民台帳を作成していたように)ローマ帝国による人々への支配と住民管理の具として用いられ、キリスト教勢力の拡大と引き換えに、このイエスの姿勢・神の国宣教を継承しなかった。パウロはコリント教会における淫行を禁じ、そのような行いをなす人々を排除するよう命じた。それは同時にローマ帝国内の激しい風紀・性的な乱れを是正するものとして期待されたと思われる。パウロらの思想は後のキリスト教会に受け継がれ、教父時代においては禁欲が重視され、売春女性は教会から(表向きには)排除された。しかし、同時に当時は「必要悪」として認められていた。さらにこのような姿勢は中世ヨーロッパのキリスト教会にも継続され、社会や教会の精神的純潔が守られるために売春は暗黙に是認された。宗教改革者たちも売春女性を厳しく差別しつつ、カトリック教会と同様「必要悪」として彼女たちを黙認していた。それ故に性的な逸脱を告白懺悔させるための「懺悔部屋」は教会の中に不可欠だった。このダブルスタンダードの姿勢、一方では結婚という枠以外での“濃厚接触”は禁じつつ、男女の契約を教会が仕切りつつ(現代の牧師たちの貴重な収入源)、現実的な男女関係の逸脱を懺悔のセレモニーでこっそり赦すというダブルスタンダード(二重規範)は、そのまま現代のキリスト教に引き継がれている。

先週の出来事
 めぐみさんを待ち続けていた横田滋さんが亡くなった。日本政府に働きかけ続けてきたにも関わらず、その政府から裏切られ続けた、と感じる。「断腸の思いで、本当に申し訳ない思いでいっぱいだ」の某国首相のことばが、人間のことばに聞こえない。

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