20201018 礼拝宣教要旨「癒やしは人のわざに非ず」
Table of Contents
列王記上17章17-22節
17 これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、18 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。19 エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、20 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。21 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。22 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。
• マルコ福音書9章25-29節
9:25イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
9:26すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
9:27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
9:28家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
宣教題「癒やしはひとのわざに非ず」
喋れず聞こえずてんかんの症状をいつも引き起こす子ども。イエスにできた癒やしのわざが弟子たちにはできなかったのはなぜかと弟子が問うている場面。
「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」の「祈」は何か。預言者エリアは息が絶えた子の母親から、不幸をもたらした人として責められる。
※教会の堂守を長年していると、もっとも心を配り力を尽くした相手から、最も激しく責められることはままある。
亡くなった子に自らの身体を重ね、ひとつとなり、神に一蓮托生の運命を委ね祈った。その姿は、人々を襲った不幸をもたらした責任者として海に沈められ、大魚に飲み込まれ、生死を神にゆだねつつ、神のわざを讃美したヨナの姿と重なる。
「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」マタイ16:4
日本における「山伏」の語源は、重い心の病を負った人と山を巡り、山に伏して共に寝る、すなわちふたりの生死を山に預け、死を覚悟しつつ再生を祈る荒行に由来すると学んだ。
エリアが病を癒やしたのではない。預言者たちが癒やしたのではない。イザヤが癒やしたのではない。イエスが癒やしたのではない。預言者は死に直面している「小さき者」を支えるため、自らを捧げ物として、生け贄として、死に差し出し、死の淵から「滅ぶべき“我々”に対し」神のちから、再生のわざ、いのちが新たに吹き込まれる神のわざが起こることを願った。そこに「共苦」と「受苦」のわざがあったればこその「神のわざ」が起こったと理解できる。
現代では脳の傷や奇形、先天性代謝異常(酵素の欠損)による発達障害、発作を伴う重度心身障害などの診断となるのでしょう。現代社会では、本来病気や怪我の治療を行う医師が、治らないハンディに対しても診断し指導するという、医師をトップとする行政による福祉政策という仕組みになってきています。生きにくさを分かち合い、軽減し合う「共苦」の人間関係、家族や地域や顔見知りによる助け合いはますます見失われていくような気がします。
医師や公認心理師、社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士、介護支援専門員(ケアーマネージャー)、訪問介護員(ホームヘルパー)などなど、弱者に対する職種の細分化・専門化(資格化)が進むほど、身体の命を守るためと医療が優先されながら、魂が軽んじられ、サービスをする側もサービスを受ける側もなぜか貧しく、医療機器や介護機器は発達してもやはり生きにくく、互いの関係が不幸になっているのは何故でしょうか?
先週の出来事
中曽根元総理の合同葬儀に際し、国公立大学や中央官庁、最高裁裁判所などに弔旗の掲揚や黙祷を求める通達が内閣から出されていた件。忖度の強制? 「総理」とは、「公僕」「公務員」「国民への奉仕者」ではなく、国民が仰ぎ見る日本帝国の元帥であり、元元帥の死は国民こぞって哀悼の意を表すのが当然、という感覚がまかりとおっているのでしょうか。