20210418東淀川教会宣教要旨「象徴?ヤバイヤバイ」

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、本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
サムエル記下6章 1~8節
ダビデはさらに、イスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。
ダビデは、彼に従うすべての民と共にバアレ・ユダを出発し、「ケルビムの上に座す万軍の主」という名で呼ばれる神の箱をそこから運び上げた。
彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せ、運び出した。アビナダブの息子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。
彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を運び出した。アフヨが箱の前を進んでいた。
ダビデとイスラエルの家は皆、主の前で糸杉の楽器、琴、竪琴、タンバリン、鈴、シンバルを奏でた。
だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。
すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。
ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。

マルコによる福音書12章 17節
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚嘆した。

宣教要旨『象徴? やばいヤバイ』 

12部族に分かれていたものを軍事的に統一するために、中立で、要害に地であるエルサレムをカナン系エブス人から奪い、エルサレムに首都に定め、ヘブロンからエルサレムに移った。
(エルサレムはもともとユダヤ人の土地、なんて主張は、歴史の、ほんの1時期の一段面に過ぎない)

シナイ山で神から与えられた十戒が記されているといわれるイスラエルの神の臨在の象徴であった神の箱を、軍事目的、戦場に神の箱を担ぎ出して戦意を鼓舞するため、この新都エルサレムに持ち込むことにした。
 神との契約を思い出し続けるためであり礼拝の対象であったものを、イスラエル統一国家の「軍神」の象徴とし、派手な神輿に乗せ、錦の御旗を掲げ、練り歩き、ラッパやいろんな楽器をかき鳴らし、祭りの興奮とともにイスラエル12部族の統一と戦意高揚を図った。
 運び込む途中に牛がよろめき、神の箱がズレて落ちそうになったので部下のウザが慌てて抑えた。祭司や祭儀に仕える職にない者が直接手に触れたため、という表向きの理由で、ウザは死んでしまう。いわば「ケチ」がついたので、いったん別の場所に安置し、のちにエルサレムに運び込んでいる。
 ダビデは一方で神聖政治による統一国家を成立させた、政治と宗教にまたがる英雄として描かれる一方で、神を軍事利用した、その過ちについても聖書は語り続けている。本来、神を軍神として政治利用することは明らかな偶像利用、「偶像崇拝」であろう。

 日本の「天皇」もまた、兵・軍隊を組織し、征夷大将軍を任命するなど、その成立過程を眺めれば、初めから、そしてずっと「軍神」だった。敗戦とともに、天皇を頂点とする軍事国家から、戦争を放棄した民主国家へと変貌するためには、戦争を指揮した過ちを反省し、「天皇」を、人々の平安を祈り続ける神官として崇拝する、一つの民間宗教として残ったならば、皇族にも平安が訪れたと思われる。皇族が好きな人々がいてもいい。天皇が好きな人々がいていい。が、“国家の象徴” “軍神”とすべきではなかった。
  軍神の象徴とし、利用し続けようとするからこそ、戦死者を英霊として祀る「靖国神社」が残ることになった。
 イエスの「神ものは神に、皇帝のものは皇帝に」は、「神のもの」と「世の権力者のもの」を決して混ぜてはならない、はっきり分けなければならない、と聞こえる。皇帝による支配のため神を利用することや、神を軍神とすることへの否定をも語っていると思われる。
 キリスト者とは、キリスト教の歴史の過ちをより自覚し、置かれた時代の中で、過ちを繰り返さないための預言者の役割を果たしたい。

先週の出来事
 トリチウムを含む汚染水を希釈して海に流すという発表に、中国外務省に「安全なら自分で飲んでみれば?」といわれ麻生財務相「飲めるんじゃないんですか?」と応答。せめて「これから国会の飲料水、我が家の飲料水に使う」くらい言うべきではなかったか。

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