20210613 礼拝宣教要旨「自分の命」とは 宣教担当 金田恆孝

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

列王記上19章4節 

彼自身は荒れ野の中を一日の道のりほど歩き続け、一本のえにしだの木の下にたどりついて座った。エリヤは自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから。」

マタイによる福音書16章25−26節
自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。

たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。

 宣教要旨「自分の命」とは
「自分の命」についての言葉遣い、訳し方について福音書の中に「ゆらぎ」がある。
危険を避け、肉体を守ることで守ろうとする「自分の命」(医学でのバイタル)と、神に与えられ神に育まれ神に任せるしかない、むしろ「神が自分に与えた魂」(ソウル)とか、精神(スピリッツ)と訳したい「自分の命」である。

 マタイ福音書の「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」と
「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。」は一見矛盾にも見える。

  何を自分の命とするかは自分で選び取らなければならず、どちらも得ることはできない、日和見的に自分の命を守ることはできない、命懸けで決定しなければならない、という緊張感が根底(ベース)にある。

 背景にはローマ帝国の迫害、ヘロデ王一派からの迫害、神殿及びユダヤ教各派からの敵視・迫害などに囲まれていたための緊張があった。

 復活したイエスこそメシア、律法の成就、預言の完成、そしてまもなく訪れるであろう終末に生者と死者、救われる者と救われない者を分けるのがイエス・キリスト。「あなたはこの世の、バイタルとしての生命を優先しますか? それとも神に選ばれる、選民としての「永遠の生命」を優先しますか?‥みたいな二者択一を迫る「自分の命」理解の萌芽(芽生え)が生まれていた。今日でも、福音派と呼ばれる熱心なグループの最大の課題は、この終末(世の終わり)に備えること、となる。その終末観には各派によって差はあるが。

 現代社会。ピラミッド型社会や貨幣経済に支えられた文明そのものを敵視し、社会に対して蜂起・叛乱を試みた熱狂集団もたくさん現れた。あるいは、カリスマ的な教祖を中心にした熱狂的な集団がいくつも生まれた。それらがかつての“村落共同体”に代わる「助け合い、運命を共にする仲間」となっている場合も多い。

 今日では「カルト」という言葉が流行し、「似非(えせ)宗教」「反社会的な集団」というレッテルとして機能していることが多い。明治以降の西洋化に合わせて作られた「宗教」の概念そのものが実は曖昧なものであり、本物か似非かを区別する定義はない。古いものを本物、新しいものを似非・新興宗教・カルトと区別するのも暴挙である。すると統一協会やオーム真理教などの事件を背景に「カルト」とは社会や国家を乱すもの、という理解が一般的になりつつある。「カルト」を語る社会学者は、反社会性、反国家性ではなく、“人権侵害”をキーワードにして「カルト」監視活動を行なっている者も多い。「その集団が法的人権を守っているか否か」が「カルト」判断の一つの指標として判断され続ける結果、「カルト」の監視活動が、国家の人権定義、国家の治安維持活動に寄与していく可能性は大きい。

 統一協会、オーム真理教などによる犯罪行為も多く世に知られたが、形を変えながら強かに残っている。どれほど非難・批判に晒されても、裁判に負けても、消えないビジョン、核心的な信条は残っているし、そこ以外に身の置き場がない人々も多くいるのも現実である。

 独裁的指導体制のもとで国家そのものが熱狂集団化し、カルト国家とも呼ばれ、反対する者たちを粛清している現実もある。反国家ではないが、教祖の「反医学」「反電磁波」「反精神医学」「反自然破壊」を教義の柱としている宗教的集団(セクト)もある。宗教でなくても、社会変革ではなく自己変革を迫る「自己啓発セミナー」も相変わらず盛んである。原発事故以来、放射能被害を訴える人々を「放射能カルト」と非難する人々もいる。善悪を分ける便利なレッテルとしての「カルト」がもたらした功罪は大きい。

 ワッチタワー(エホバの証人)の明石順三は聖書に基づき戦争に反対し、1939年に治安維持法で逮捕され懲役刑となった。1945年終戦で釈放されたが、米国による戦争を肯定する米国「エホバの証人本部」を批判したため除名された。


 その集団が悪か善かの判断、判決を下す以前に、その運動を担う一人一人が心理誘導によって集団を絶対化し、教祖や集団の部品となり一兵士となっているのか、それともいかなる理想を共有しているのか、自分の生き方としての主体的な選択なのかについて、本人を含む周囲の人々による話し合い、さまざまな角度からの検証がとても大切なことと思われる。かつて私自身も従事した、熱狂集団参加者への“説得活動”が目指したのもそこだったと感じている。

先週の出来事
(CNN) 中国の研究チームは10日、南西部の雲南省でコウモリから新たなコロナウイルスを複数発見したと明らかにした。この中には、新型コロナウイルス感染症を引き起こすウイルス「SARS―CoV―2」に現時点で遺伝的に2番目に近い可能性があるウイルスも含まれる、とのこと。やはりコウモリ由来だったのか。これって、武器としても使えるのかな? 鳥インフルエンザ、豚コレラ、コウモリのコロナウィルス‥現代の人類は焼却処分や消毒や隔離やワクチンに守られなければならない、限りなく弱い生き物になりつつあることの証拠と感じられる。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です