20210912 SundayService Linggo ng serbisyo 東淀川教会 宣教題「偶像崇拝禁止とは」担当 金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
(出エジプト記20章3節) あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。(4節) あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。(5節) それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、(6節)私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。(7節)あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。
(マルコによる福音書1章 21節)一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。(22節)人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。(23節)するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
(24節)「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(25節)イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、(26節)汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。
宣教の要旨「偶像崇拝禁止とは」
壮大な神話から始まる創世記の物語、出エジプト記をはじめとするモーセ5書などを中心とした神イメージ、神と人との関係イメージは、イスラエル民族のみならずセム語族、ハム語族など、今日私たちが「中東」と呼ぶ地域に広く広がっていたイメージだったのでしょう。その神イメージは、宇宙万物の創造主(唯一.only)、全ての生命を生み出した親のような、人格的な感情を持った神(妬む神)であり、時の流れも天体の動きも全てを支配している(全部all)神という、超越的なイメージでありながら、遊牧民の強い族長のような、人間的なイメージも備えた神イメージを感じます。
唯一Onlyであり、全てAll であり、ここから始まりここに帰る全ての命の親である「神」のイメージを、被造物でしかない人間如きが勝手に作り出してはならない、目に見えるモノや形、偶像で神を表現してはならない、というのが偶像崇拝禁止の始まりだったと思われます。
何を禁止されている偶像と看做すかを巡って、その後、聖人画(イコン崇拝)の是非、聖人列伝、マリア崇拝等々をめぐり(或いはセクト争いの口実として利用されながら)偶像崇拝・偶像破壊をめぐる争いは今日も続いているわけです。
そもそも、今日でいうところのユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、ほぼ一つの神イメージから始まった群れであるわけですが。
大天使ガブリエルからのメッセージを受け取ったというムハンマドから始まり、メッカという小さな町から生まれたイスラム教がなぜキリスト教を否定したのかについてですが、「キリスト教は預言者イエスを神と同格にみなし(三位一体論)崇拝するのは偶像崇拝であり、間違いである」ということらしいのです。
イエスが自分自身を「人の子」とは表現しましたが、「神の子」であるとか、「メシア」であるとか、神から遣わされた聖者であるとかは言わなかったし、イエスを神格化しようとする周囲の動きを否定し続けたように思います。
マルコ福音書1章の、カファルナウムでの出来事で、悪霊に取り憑かれた男がイエスに向かって「お前の正体は神の聖者だ!」と叫び、イエスが「黙れ、この人から出ていけ!」と叱った、というこの記事は、イエスを神格化しようとする群衆の熱狂こそが悪霊である、というメッセージと受け取ることができますし、イエスに対する神格化をイエス自身が否定した、とも理解できます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、成就するためである」マルコ5:17 「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」マルコ10:45 などの記事やメッセージも、ユダヤ教を否定し、新しい宗教(キリスト教)を作るためにきたのではない、モーセの十戒、人を奴隷状態から解放するためにモーセを用いた神イメージ、神と人との関係をとり戻すために現れた、というメッセージを感じるのです。(イエスはユダヤ教徒であった、という表現にはやや抵抗を感じます。イエスの時代のユダヤ教は、ユダ族や国家を前提とした宗教体系が出来上がっていました。イエスは12部族連合時代の「イスラエルの神」イメージだったと思うのです)
イエスの十字架処刑ののちに生まれたキリスト教は、教会が西へ、南へ、北へ広がって行く中で、様々な話し合いを行い、神学を生み出し、三位一体論もこの話し合いの中から作り出されました。イスラム教は、この「話し合い」を一切しないというのです。食べ物のタブーも、祈りの文言も、生活習慣も、“イスラム教はこうだ”という取り決めは一切ないらしいのです。その時代の、違う地域の人間たちが集まって話し合って、何が正しいとか、何が間違っているとか、イスラム法はこうであるとか、決めること自体間違っている、というのです。西洋の成文法の世界に対して、自然法、習慣法、みたいな感じでしょうか。今日、イスラム教徒の過激派が貴重な文化財を破壊した、などのニュースに触れることがありますが、始祖ムハンマドの肖像すら飾ることを禁じている“偶像崇拝禁止”の感覚を私たちが理解するのはとても困難だと感じます。
今日でも“カルト”と呼ばれる熱狂集団は、指導者を神格化し、個別の「自我」を放棄=自分が自分であることを否定し、教祖と一体化することを目指します。極端に言えば、全ての信徒が教祖のコピー、均一の部品となることを目的とします。それは神がこの世に唯一の命を吹き込んだこととは真逆となります。人間を均一な部品化するもの、お金の奴隷とするもの、均一化出来ない者を排除する、差別化する、そういった人間が作り出した「闇」から人を解放するため、そこから抜け出すことに仕えるためにイエスは現れた、と福音書を読むことができます。キリスト教は「神の子イエス」という神学を打ち立てましたが、それはイエスの言葉とは異なるのかも知れない、という感覚を保ちつつ、イエスの働きに目と心を注ぎ続けたいと思います。
先週の出来事
非常事態宣言が9月末まで延長された。10月もまた延長されない保証はどこにもない。重傷者数は増加しているとのこと。入院はできない、家庭内感染は防げない、など、あちこちでストレス、抑圧が蔓延し、負のエネルギーが軋んだり暴発しているような事件が起きているように感じられる。