20210919 SundayService 宣教題「いのちも場所も神さまからのレンタル」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書5章 1-9節
 私は歌おう、私の愛する者のために ぶどう畑の愛の歌を。愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。彼は畑を掘り起こし、石を取り除き 良いぶどうを植えた。また、畑の中央に見張りのやぐらを建て 搾り場を掘った。彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ 私とぶどう畑の間を裁いてみよ。ぶどう畑に対してすべきことで 私がしなかったことがまだあるか。私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。そこで今、あなたがたに知らせよう 私がぶどう畑にしようとしていることを。垣根を取り払い、荒らされるに任せ 石垣を壊し、踏みつけられるに任せる。
 私はこれを荒れ地にする。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨とあざみが生い茂る。 私は雲に命じて、もはや雨を降らせない。万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに そこには、流血。正義を待ち望んだのに そこには、叫び。
災いあれ、家に家を連ね、畑に畑を加える者に。もはや土地はなくなり あなたがただけがこの地の中に住もうとしている。万軍の主は私の耳に告げる。多くの家は荒れ果て 大きく美しい家々にも住む人がいなくなる。

マルコによる福音書12章1-10節
 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。さらに、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。その人には、まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した。さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。
聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。

宣教の要旨「いのちも土地も神さまからのレンタル」


 紀元前1千年以上前のこと。イスラエル12 部族がカナンの地(パレスチナ)に入植したとき、12部族が各地にそれぞれ分かれて入っていったのは、先住民や近隣部族と共存し、各地それぞれに溶け込んでいくためだったと思われる。ちからで強引に侵入する、戦ってでも侵略するつもりだったら、ひとかたまりになって入ったはず。

「葡萄園悪しき農夫の話」はマタイ、マルコ、ルカ、トマス、各福音書にあり、イエスが引用しているのはこのイザヤ書5章を引用してイエスが語った重要なメッセージであろう。主に導かれ、主が「畑を掘り起こし石を取り除き良いブドウを植えた」土地に入ったのは12のイスラエルの家だった。(入植した12部族は各地に分かれ他のう部族と調和するはずだったが、兄弟争いと近隣部族との争いに明け暮れ、12部族は「北のイスラエルの人」と「南ユダの人」とに分かれ、やがて北イスラエル10部族は滅んだ。国家と武力と財力に頼った「ユダの人」が残したのは流血と悲鳴。ブドウ園から収穫したのは、調和でも平和でもなく「酸っぱいブドウだけ」となり、主はこの民を散らすと告げた。「イスラエル」という言葉には、調和・平和を作り出そうとする「神とともに歩む民」というアイデンティティ、民族理解が込められていたと思われる。

 イエスはイザヤ書5章を受け、南の「エルサレム」を中心とした、周囲と調和せず、国益、利権のみを追い求める「ユダの人」の姿だけでなく、本来神のものである土地を自分たちのものにしようとし、全ての人の命は神のものであるのに、自分たちが作り出した「選民思想」により、異邦人たちを軽んじるようになった。傲慢になってしまった「ユダの人」に対し、神は何度も預言者たちを派遣し、ブドウ園は神のものであることを告げたが、人々は彼らを迫害し、追放し、しまいには殺し、神に守られることよりも国に守られることを選んだ。やがて神はこのカナンの地に彼らを入植させたことを悔い、彼らをここから追い出し、散らしてしまう、と語る。

 30年ごろのイエスの十字架処刑ののち、70年エルサレム神殿崩壊以後、世界に散った流浪の民(ディアスポラ)が、国家を持たないまま「神と共に歩む民・イスラエル」の民族理解を保ち続けたが、ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦終結ののち、「やはり国家は必要」と、パレスチナの中に武力でエルサレム国家を建設したことが火種となり今日の民族紛争、列強国の覇権争い、難民問題の大きな病根の一つとなっていることは、現代のキリスト者が“内なる過ちと痛み”として受け止め、考え続けなければならない課題であろう。

 “入植”について考えていたとき、現在は廃村となった埼玉県秩父市吉田大田部楢尾地区の山の民の末裔を追ったNHKドキュメント「花のあとさき」を観ました。「どの花も器量いっぱいに咲いて綺麗だよ〜。お借りした土地や畑をお山の神さまにお返しするためハナモモの木を植えているよ〜」と語るムツおばあさんの言葉に感動しました。(土地も、いのちも神のもの。神からお借りして、役目が終わったら、木や花を植えて、神さまにお返しするだよ〜)のメッセージが伝わってきました。

先週の出来事 岸和田だんじり祭りが「2年連続の自粛はできない」と開催に踏み切った(22町のうち5町は自粛)。だんじり祭りは疫病退散の神事である。感染に怯え、自粛を促す勢力との妥協点を探りながら町ぐるみで実施を決めたパワーに拍手を送りたい。

 

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