20210926 SundayService 宣教題「お金という偶像」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

出エジプト記32章 1-4節
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、
民はアロンのもとに集まって言った。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。

申命記29章 16-18節
あなたがたは、彼らのところにある木や石、銀や金でできた憎むべき偶像を見た。
あなたがたの中に、今日、心変わりして私たちの神、主を離れ、諸国民の神々のもとに行って仕えるような男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。
この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。

マルコによる福音書10章 25節
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」

宣教の要旨「お金という偶像」

 禁止されるべき「偶像崇拝」の「偶像」とは何か。モーセが十戒を授かった場面で言えば、目に見えるものとしては、彫像としての「金の子牛」ですが、本質としては「富」崇拝禁止、目に見えるものとしての「金、貨幣」をこそ最大の“我々の守り”として崇拝することだったのでしょう。後世のキリスト教は、目に見える「もの」についてのみ偶像として激しい論争や争いを繰り返し、「富」によってのみ守られようとすること、富の集積、資本の信仰的理解について答えることを避け続けたと思います。米国の鉄鋼王と呼ばれ大富豪だったアンドリュー・カーネギーのように、イエスの問いかけに個人として答え、個人資産を公共の富のために寄付し、お金持ちであることをやめたキリスト者もいました。規模は違ってもカーネギーのような信仰者は歴史上多くいたと思います。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」とか「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」(マルコ12:17)がイエスが直接語った真正の言葉であることを疑う神学者はいないと思います。“金持ち”、資本家、富を独占する者が、“貧しい者”を生み出している、お金がなければ食べ物も手に入らないシステムを作り出し、神さまによってのみ生かされることを不可能とし、人をお金の奴隷にしていることに対するイエスの激しい怒り、資本に対する告発を誰にでもわかる優しい言葉で表現していると感じられる。イスラエルの民が十戒を授かるとき、“金の子牛”事件が起こった。金の子牛は指導者モーセへの不安から「神の偶像を作り出し崇拝した」罪以上に、富(貨幣、銀・金)への依存、富への崇拝そのものに対する神の怒りを表していると思われる。「偶像崇拝禁止」の中心課題はここにあったと感じられる。“お金は王様や国が作り出したもので、神が作ったものではない” “人間が作り出した便利なものであったとしても、そのお金がなくても、お金の奴隷にならなくても生きていける、助け合える世をこそ主なる神は祝福される”、そんなメッセージをイエスは子どもたち、大人たちに向けて語っていたと想像するのです。
 富の支配、経済への従属・奴隷化から脱して、「お金なんかなくても生かしあえる社会」を考えるとき、イエスの言葉は現代で重要なメッセージだろうと思うのです。小中学校で「そもそもお金ってなんだろう」「お金で人が不幸になるのは何故か」みたいな対話や学習、勉強ができるようになったら子どもたちも元気になるのではと思うのです。

先週の出来事

 朝ドラの「モネ」で、「津波を見ていない」「私は故郷から逃げ出した」ことがトラウマになり、「故郷に戻って役に立ちたい」のメッセージが繰り返されると、原発の放射能汚染、子どもたちの被爆を恐れて福島周辺から逃れた人々、帰還できない人々にとって、辛いメッセージではないかと思う。ドラマの中で「津波」という言葉は出てくるが、放射能汚染、被曝などの言葉が出てこないことは不思議だった。気仙沼で牡蠣の養殖が悪天候の被害を受けた、という話題でも、牡蠣の放射能に対する安全性の話題に一切触れないことはいかにも不自然。

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