20220410 礼拝宣教要旨「信じられない」担当:金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書6章 9節
主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、
悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。
イザヤ書53章 1~4節
私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。
この人は主の前で若枝のように 乾いた地から出た根のように育った。
彼には見るべき麗しさも輝きもなく 望ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 痛みの人で、病を知っていた。
人々から顔を背けられるほど軽蔑され 私たちも彼を尊ばなかった。
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。
しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
マルコ福音書6章1~6節
イエスはそこを去って、故郷にお帰りになった。弟子たちも従った。(1節)
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人はそれを聞いて、
驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。
この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。(2節)
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟では
ないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。」
こうして、人々はイエスにつまずいた。(3節)
イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の
間だけである。」(4節)
そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことが
おできにならなかった。(5節)
そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは、近くの村を教えて回られた。
(6節)
宣教の要旨「信じられない」
「信じられない!」って、子どもたちの間(おとなも)でもよく使う、攻撃相手へのジャブのようなセリフです。「じゃあ、あんたは何が信じられるの?」という、逆の問いかけに対する答えは大人でもわかりません。
“聴け!見よ! だが、私の言葉を信じるな! 聴いたことや見たことを信じるな! 理解するな!” などと、いま、わたしたちがイザヤから聞いたら、私たちはどんな反応をするのでしょう。
ここからの私的な連想ですが、数年前、小学生高学年の子どもと対話が成り立たなくなったお母さんから、「命令や指示ではなくて、子どもにとって大切なことを伝えたいのだが、何を伝えたらいいのかわからなくなっている」という相談を受けたことがありました。その時のなりゆきで、私が提案したのは、「嘘をつきなさい」でした。本当に伝えなければならない大切なこと、なんておとな自体がわかっていないわけで、わかったふうなことは言わなくていい。それより、本気で欺そうと嘘をつく。欺されて悔しがる子どもの顔を見るのはおもしろいし、子どもも嘘を見抜く力をつけられたら一石二鳥だし。本気で欺そうと頑張ってください、と提案しました。私の提案は鼻先で却下されましたが。
イザヤ書の「悟ってはならない・理解してはならない」は、人や集団が自分や自分たちの思いや考え、信念や教義を基準として、何かを「正しい」「間違っている」と決めつけること自体への批判です。元来、人は自分自身を「正しい」と思いたいし、自分のことは理解している、自分を信じて疑いたくない自己愛・感情に由来しているのであり、本質的には「錯誤」です。勘違いです。ある程度自分自身を分析できる年齢に達すると、“自分こそがいちばん信用できない”ことが、それとなくわかってくるものです。誰にとっても正しいこと、間違っていること、善悪の基準なんて「わからん」のが本当なんだし、人の頭(考え)と言葉で人やことがらの善悪を裁くことは、実は神の言葉を恐れぬ傲慢なことであるわけです。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じる(間違う)のだ。」(マタイによる福音書5章 37節)は、このことを指し示していると思います。
主なる神の言葉に捕まり、主によって用いられる、その結果としての十字架への道を新たに歩み出したイエスが、ガリラヤや周辺各地で宣教と主のわざを行い、途中でナザレの故郷に立ち寄った。
その教えの解き明かしや、主の、イエスたちを用いたわざに驚きつつも、イエスの出生地、生育過程、家族などを知っている人たちは、頭で知っているイエスについての“知識”と、そのときその場でイエスと出会った“現実”、新たな教え、出来事との間でパニックを起こしたのでしょう。見た目には知っている、親族関係や過去の仕事なども知っている、本当の父親のことはわからない「あのイエス」についての記憶や知識が邪魔になって、まったく異なった、「新たなイエス」を受け入れることができなかったし、そこで起こっているイエス(たち)のわざを「冷静に視る」こともできなかった。イエスとの新たな出会い、そこで起こった新たなことがらと、自己中心の理解、自己中心の信仰とがぶっつかってパニックを起こしたとき、Oh My God !と叫び、「自己中」から離れられなくなったのでしょう。できることならば、「信じられない自分が信じられない!」と告白すべきだったのでしょう。
自分によって、ポンコツの頭を司令塔にして生きるのではなく、神さまによって命を吹きこまれ、流され、その時まで生かされることをありのまま受け入れるのが「信」であり信仰なのでしょう。これまでもそうだったように、自分が新たに変えられる、変わる、更に新たな生き方へと押し出されることを畏れず、風任せで歩みたい。
先週の出来事
EU連合諸国がロシアのウクライナ侵攻を非難し、ロシアの安い石炭、液化ガスなどへの依存、輸入を止めてロシアに圧力をかけようとしている中で、日本は損益重視で輸入を続けようとしている様子。「笑顔だが何を考えているか不明な日和見日本人」イメージは続くのだろう。