20221030 宣教要旨「従属のバプテスマ」「神の子」マタイ5:9 使徒言行録2:38 使徒言行録2:43-45 使徒言行録8:18-20 使徒言行録9:17-20
本日の聖書箇所
マタイによる福音書5章 9節
平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。
使徒言行録2章 38節
そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
使徒言行録2章 43-45節
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
使徒言行録/ 08章 18-20節
シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、
言った。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と共に滅びるがよい。神の賜物が金で手に入ると思っているからだ。
使徒言行録9章 20節
すぐ諸会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
:使徒言行録9章 17-19節
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。
宣教の要旨「神の子への従属のバプテスマ」
イエスが十字架で死刑に処せられた出来事の後、“イエスこそ唯一の神の子”という「神学」が成立したと思われます。しかし「神の子」という概念はもっと広いものでした。
申命記32章5節には「彼らは主に対して悪を行い、その汚れのゆえにもはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。」は、神に祝福された世代、多数の人々がいたことを前提としています。
マタイ福音書5章9節の「平和を造る人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」も複数・多数の人々を想定している言葉です。
ホセア書2章1節「あなたがたは生ける神の子らと言われる」も同じように複数形です。
イエスの宣教は、“人はもともと神の子なのだ。神の子に帰ろう。神の子としての尊厳・尊厳を奪われている人のそれをともに取り戻そう”だったと思われます。
平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章 9節)
お金は神が作ったものではなく、人間が作り出したものです。このお金は人間たちを進化させたのでしょうか。幸福をもたらしたものでしょうか。
おそらく、イエスは、お金がなくても不自由しない、お互いが支え合い生かしあえる社会が理想的な社会なんだ、と人々に語っていたと思われます。
「平和を造る」とは、 “困ったときにしてほしいことを隣人にしよう。それが平和を作り出すことなのだ”というイエスのメッセージが人々の心の中に残っていたからこそ、全てのものを共有し、食べ物も分かち合い、困ったことも分かち合い、食卓にともに座る光景が実現したはずです。
それらが“イエスこそ唯一のメシアであり、唯一の神の子”という教え・神学に変わり、そのイエスに従属することが救われる条件であり、従属の儀式がバプテスマである、というように変化したのだと考えられます。
“一人ひとりがかけがえのない神の子であり、奪われ見失っている神の子の尊厳を一緒に取り戻そう。私(イエス)への従属ではなく、この世への従属ではなく、神の子として自立しよう。互いに支え合って神の子らの平和を取り戻そう”というイエスの言葉(福音)に各々が応答する、然りと答える、それが洗礼・バプテスマだと理解しています。
先週の出来事
選挙で勝つために「カルト」と癒着してきた戦後の「第1党」の姿が少しずつ明らかにされています。特定のカルト団体とこれからは手を切る、というトカゲの尻尾切りではなく、全ての癒着関係を明らかにし、政教分離のあり方、選挙制度のあり方をも含めて徹底的に洗い直さなければならないところに来ている、と思います。皆さまとご意見を交わしたいと願います。