20221023 宣教要旨「逆立ちしたバプテスマ」イザヤ書53:4-5 マルコ10:34-38 マルコ10:45 ルカ12:49-53

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週報№2786 降誕前 第9主日礼拝

本日の聖書箇所

イザヤ書53章 4−5節
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
マルコによる福音書10章 34〜38節
異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する。」
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」

マルコによる福音書 10章 45節
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

ルカによる福音書12章 49〜53節
「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。
父は子と、子は父と 母は娘と、娘は母と しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと 対立して分かれる。」

宣教の要旨「逆立ちしたバプテスマ」

 イエスも受けたヨハネからのバプテスマとは、「神の怒りを受け止める」「悔いる」「悔い改める」ことを本義とした水によるバプテスマ(洗礼)だった。人の側からの自主的、主体的行為です。

 イエスの言葉として描かれている「この私が飲む盃を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」(マルコ)あるいは、「私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。」(ルカ)においては、イエスの処刑(十字架)が、イエスの引き受けたバプテスマとして表現されている。神の怒りを引き起こした罪への償い、罪の対価、罰、神の怒りを鎮めるための生贄、というような意味合いを含むバプテスマであり、それを求める「神」が主体です。そこに“逆立ち”があります。

 なぜイエスはたった一人惨殺されることを引き受けたのか。イエスはイザヤ書の示した「執り成しの受難者」神の求める「生贄」を自身の活動の結末と重ねていたのでしょうか。
 イエスが十字架に引き渡される前の最後の晩餐。それは「目に見える体としてのわたしはいなくなるが、例外のないすべての人々と、パンと葡萄の汁を分かち合い飲むことを目指す食卓にわたしはいつまでも一緒にいる」という別れの食卓と思われますが、死刑・十字架の出来事と復活の証言のあと、イエスをキリストと告白する教会が生まれ、“十字架=イエスが引き受けたバプテスマ”として教理化され、パンをイエスの体として食べ、葡萄の汁をイエスの血としていただく、という教団入信の儀式が成立したと思われますが、この「教会の教理」が、後から書かれた福音書に「イエスの言葉」として取り込まれた、と思われます。

 「バプテスマ(洗礼)」の言葉・概念は、「イエスの受難・十字架」を表す言葉として教会で解釈され、悔い改めて古い自分自身を十字架に架け(いったん滅ぼされ)、イエスとともに復活し、永遠の生命を得る希望を保証される、重要なしるしとなり、「イエスこそ救い主」を旗印とする初期キリスト教団の入団儀礼であり救われるための条件儀礼となったわけです。

 「私が来たのは、地上に火を投じるためである。…あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」のメッセージは、“バプテスマを受けることによって救われたい。永遠の生命を得たい”という願望・バプテスマ理解とは逆立ちしているのでしょう。

 イエスの復活信仰には大きく分けて二つあると思われます。一つは、復活したイエスは天におられ、終末の時に地上に現れ(再臨)、死んだキリスト者たちを永遠の生命へと復活させる、という信仰。もう一つは、復活したイエスはガリラヤから新たな旅を続けていて、姿を変え、今もこの世界の中で歩んでおられる、という信仰です。

 世のしんがりに置かれた人々を支え、すべての人を神の子とし、助け合う人間関係を築くイエスたちの運動は、それを本気でやればやるほどユダヤ社会のピラミッド構造の国家体制を蔑ろにするものだったはずです。意見が別れ、分裂・対立が引き起こされます。更に、そのような活動が国への反逆と判決されると、首謀者たちや同調する者たちを根絶やしにしようとする迫害も続いたはずです。それがたった一人の見せしめ刑で終ったこと自体が驚きですし、“イエス以外の受難者を出さない”計画遂行のために、イエスとユダとの間に「密約」があったと思うのです。

先週の出来事

富士山5合目から下って事故を起こしたバスはAT(オートマチック)車だったのだろうか?まだ若い運転手はマニュアル車の、低いギアで速度を落としながらブレーキシステムの加熱を防ぐ運転の体験がなかったのだろうか? クラッチ操作もギアチェンジもいらないATは便利ですが、システムが提供してくれる「便利」さは「盲点」を必ず内包していると思うのです。所詮、おバカな私たち人間が作ったものですから。

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