20221211 東淀川教会 レビ記11章 マタイ福音書15章10〜13節 Malo mori quam foedari 宣教担当 金田恆孝

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

本日の聖書箇所

レビ記11章 7節
豚、これはひづめが割れて、完全に分かれているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。

レビ記11章 10節
しかし水に群がるものや、水の中に住むすべての生き物のうち、海や川にいても、ひれやうろこのないものは、あなたがたにはすべて忌むべきものである。

レビ記11章20節
羽があって四本足で歩き、群がるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

マタイによる福音書/ 15章 10−13節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。

イエスはお答えになった。「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。

宣教の要旨「食べ物はみ〜んな清いよ」

 戦争に明け暮れ、国を失い、バビロンにて捕囚の民となり、異国の、衣食住すべてに及ぶ多様な宗教観、文化の中で過ごすことになったとき、他国ゆえ衣・住はままならないにせよ、イスラエル人のイスラエル人らしさ(アイデンティティ)を守るために、信仰・言葉だけでなく、食習慣や食べ物のタブーを厳格に守ることで、自分たちの独自性・固有性を確認し、体と心に刻み続けたわけです。それが「ケガレから身を守る」「神に選ばれた民としてのプライドを保つ」ことだと自己規定し続けたわけです。蹄が割れているとか、反芻するとか、鱗があるとかないとか、それ自体に合理的な意味があったわけではないのです。
 エルサレムに戻ることができた後も、衣食住全てにわたってケガレないための様々な規定・律法を守り続けました。その規定を守らないことは、民族としてのプライドを失うことであり、ケガレることだった。ラクダもタヌキもうさぎもイノシシも豚もワシもタカも爬虫類も。羽があって四本足で歩き群がるものとは昆虫を指しているようですが、イナゴは良い、とは、大量発生するイナゴは大事なタンパク源だったと思われます。

 そんな民族的プライド、選民意識を保つ、清らかさを保つための食べ物タブーのきまり、それ自体の「無効」をイエスが宣言してしまったのです。「親である神さまが、子である人々に清めて与えてくださっているのだから、口に入る食べ物は清い!」「○○はケガレている、などと人々に語って教え、守らせているている、あなたがたの口が人々をケガしている!」「食べる前に手を洗うか洗わないかなんて、どうでもいいことだろ!」と言い切っちゃった。聞いていた多くの難民たち、律法に縛られてきた人々にとっては、まさに「革命的な解放宣言」であり、それは口伝えに一気に、まさに「福音」として広まっていったわけです。
 しかも「神さまが植えた、命を吹き込んだんじゃないものは、神さまが根こそぎ取り除かれる」と切り返した、とあります。言い換えれば、親なる神さまが、清めて与えている以外の、ヤバイ食べ物は、神さまが取り除いてくださる、人を守り続けてくださっている、神さまの大きな守りの中にいるんだ!という宣言であり、食べ物タブーは、神さまの守りを軽視しているという批判でもあります。

 更にさらに、“そんな規定を作って人々にも守らせるあなた方は、神さまより偉いのでしょうか!”という切り返しでもあったわけです。おそらくユーモアたっぷりに、楽しく語ったのだと思います。しかしそれは、法を守らせる側の人々、神殿で力を持っていたファリサイ派の人々、律法学者たちに“喧嘩を売った”ことになり、「ファリサイ派の人々はイエスの言葉につまずいた」なんて生やさしいことではなく、イエスは反乱の煽動者であり、国家秩序を揺るがすものであり、イエスたちを決して赦すわけにはいかない!という断絶宣言をしたのです。

Malo mori quam foedari マロ・モリ・クアム・フォエダリ ラテン語で「ケガされるくらいだったら死んだほうがマシ」「不名誉より死を」という有名な音葉があるようですが、この、死よりも恐ろしい「ケガレ」感覚は、とても本質的な、厄介な、処理しきれない、刻印される感覚なのです。「ナンセンス!」などと言葉で切り捨てられないのです。それによって本当に死を選ぶ人もいますし、一生続くトラウマ・心的外傷となって本人が苦しめられ続けることもいっぱいあります。

 イスラム世界でヒジャブ(スカーフ)で顔を隠すことが女性をケガレから守っている、守られていると信じている人々がいるのも確かです。その規定、律法に対して抗議デモを行なった人や、この規定を拒否した人が有罪とされ殺されている今の現実があります。
 他国のこととして笑ってはいられません。この国でも、動物の肉や皮を捌き、人々に食糧として、或いは製品として届ける職業の人々を「ケガレ」として忌み嫌ってきた歴史があります。表面上は“差別用語禁止”とか、“差別禁止運動・教育”が行われても、ケガレという言葉の背景にある、恐怖と防衛意識は根が深いのです。

 昨今のコロナウィルス、変異株の感染や、感染者たちに対しても、「ケガレ感覚」はいとも簡単に蘇ります。神さまに守られているという信頼すら、どっかに飛んでいってしまいます。マスクをしていない人を人類の「敵」とみなす人たちもいます。

 そんな恐怖や防衛反応を笑い飛ばす、もっと大きな神さまからの守りや祝福を取り戻させてくれる、気づかせてくれるイエスの言葉・福音と、その行いを私たちの身近な具体的人間関係の中から蘇らせたいと願います。

先週の出来事

「子どもの声がうるさい」という住民の声で公園廃止が決まった長野市の遊園地。「ケバ立つ心たち」が孤立している。対立する関係の調整・調停を裁判所で試みても、疎外関係の回復に向かうことはないと思われます。やはり、子供たちの遊びの時間や場所を狭めたり制限することは、あってはならないことだと思います。大人たちのこころが激しくケバだってる時代。子どもたちと遊びながら、新たな道を探ることはもはやできないのだろうか。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です