20230402 受難節第六主日礼拝 宣教要旨「けもの化する心」詩篇70編 マタイ福音書27章
本日の讃美歌
聖書箇所
詩編70編 2~6節
神よ、私を救い出してください。主よ、急いで助けてください。私の命を狙う者が恥を受け、辱められ 私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。「あはは、あはは」とはやす者が 恥を受けて逃げ出しますように。
あなたを尋ね求める人すべてが あなたによって喜び楽しみ あなたの救いを愛する人が「神は大いなるかな」と 絶えることなく言いますように。私は苦しむ者、貧しい者です。神よ、私のために急いでください。あなたこそわが助け、わが救い。主よ、ためらわないでください。
マタイによる福音書27章 27~36節
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物を剝ぎ取り、深紅の外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
宣教要旨「けもの化する心」
偶然の事故災害や地震津波などの天災などは、まだ耐えようがある。が、人間の悪意や軽視により、辱めを受けたり、更には逃げても攻撃を受け続け、助けを得られないことがある。あざけりの声から逃れるように主に祈り続ける声が詩篇70編から響いてきます。
「主」とは、万物の創造主、命の造り主、という究極的な抽象概念だけでなく、遠くにいる友人、愛し合った人、世を去った愛する肉親、先祖たちなどを含む、「自分を大切な存在として愛してくれ、今も天から見守ってくれていると思う人々」を含みます。カトリックで言うところの「守護天使」のイメージだと思われます。
孤立無援に見えるイエスの十字架への道は、アッバ、「ちゃん」なる神や、エリヤ、イザヤなど先人の預言者たちが見守っていたと思うのです。
動物を「けもの」と呼ぶ心は、“サタンが入った”とか、“悪霊に取り憑かれた”などの表現に近いものがあると思われます。「敵を攻め殺す」任務の兵士にとって、死刑判決を受けたイエスは“害虫”以下の生き物として扱わなければ、雇い主への忠誠心と心意気を保てなかったのかもしれません。いわば、獣としての動物が、他の動物を威嚇し、いたぶり、降参させることによって縄張りを確保し、獣としての威厳を保とうとする本能がありますが、「人」であること、人であろうとすることを見失う瞬間があります。
兵士たちの、イエスに対する激しい「いたぶり」を、苦しみの中でイエスはどう見ていたのでしょうか。
イエスの「何度でも」「何回でも」許しなさい、とのメッセージが響いてきます。
何を目当てに、何を目指して、許せばいいのですか、何をすればいいのですか、と問い続けたい。
文科省のデータで、福島県の小中学校における児童の“虐め”件数が、他府県に比べ数倍膨れ上がっているという。地震と津波に叩きつけられ、放射能汚染で住民たちがバラバラに分断され、廃炉の見通しも立たないまま「不可抗力だった」と責任の所在は曖昧なまま。嘘っぱちばかりの闇社会で、弱い者を威嚇し、せめて獣としての強さを誇示しようとする本能が働いているのだろうか。“虐待”の連鎖の中で“自閉”し、自傷し、自殺する子どもたちも増大している。苦しみの最中にある子どもたちの心に寄り添うことは難しい課題なのでしょう。何ができるかはわかりませんが、先ずは、闇の中に置かれている子どもたちに主に憐れみを求めたい。