20230611 聖霊降臨節第三主日 宣教要旨「親なる神と神の子たち」申命記32章 マタイ福音書7章

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本日の聖句

申命記32章4−5節

主は岩であり、主の業は完全でその道はことごとく正しい。
主は真実の神で、偽りがなく正しくて、まっすぐな方。
彼らは主に対して悪を行い その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。
よこしまで曲がった世代だ。

マタイ福音書7章9〜12節

あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

宣教要旨「親なる神と神の子たち」担当 金田恆孝

 今日の聖句からお伝えしたいのは、旧約聖書には、人は「神の子」であるという理解があったということです。イスラエル民族のプライドとしても使われていた言葉だと思います。イエスの時代には、「神の子」は、ユダヤ民族を苦しみから救い出す「メシア・救世主」と同じ意味として使われ、本来の意味としては使われていなかったと思います。

 神さまは人を自分の似姿として造ったのだから、人はもともと神の子たちである。
人間たちは(聖書の放蕩息子のように)勝手に生きているけれど、子どもが得られると、親となって、子どもにとって良い物を与えることができる。親になれる。
人が「神の子」に戻って、神さまに生かされる関係を取り戻し、父・親である神に必要なものを願い求めれば、聴いてくださる。導いてくださる。
 今は自分勝手に生きている私たちは、命の主なる神さまとの親子関係を取り戻すべきではないか。
そんなイエスのメッセージが伝わってきます。
それは、マルコ福音書 12章 30節の「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と同じ意味なのでしょう。
モーセの十戒にある「汝の父と母を敬え」にも、全ての人の親である神を愛せよ、と同じ意味が含まれていたと感じるのです。

 遊牧民・移動の民であったイスラエルの人々が出会い交流した人々は、文字も言葉も違う人々であり、共通の言葉で契約を交わすような文化はなかったと思います。言葉も通じない人々との交流で大切なのは、饗応であり食べ物や物の交換・交流であり、助け合いであり、婚姻関係であり、絵や身振り手振りを用いての相互理解と親交を深めるこそが生きていくために最も重要なことでした。
これはマルコ福音書12章31節「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と同じ意味なのでしょう。
 神さまのことをアッバと呼んだイエスは「神の子」という言葉を「全ての人」という意味で使い、神さまのことを「全ての人の親」という意味で使っていたと理解しています。


 神の子でありながら、さまざまな理由で排除、疎外されている人々のところに出かけ、神の子としての祝福を一緒に取り戻すこと、そのためのわざが「奇跡物語」となって残っています。
 本来の「神の子」をさまざまな理由で排除する側の人々に対しては、おそらく(関西弁で言えば)、「あなたがたは神の子らに何してんねん』と言っていただろうと想像しています。

 教会に通っていると、「神の子」という言葉を、伝統的なキリスト教の教えに立ち、特別な唯一の存在である「メシア、救い主、キリスト」として理解することに私たちも慣れていたわけですが、イエスは「全ての人は神の子」という意味で使っていたのではないか、という視点からもう一度イエスのメッセージに耳を傾けていただきたいと願います。

先週の出来事

 「浜田防衛相 北朝鮮「衛星」破壊措置命令を延長 迎撃態勢維持」とのニュース。あちらが「衛星」だと言っているものを、こちらの判断で「追撃する」と意思表示するのは、衛星であることを頭から否定し喧嘩売っている、喧嘩を仕掛けているのと同じ。日本国はこんなに好戦的な国なのでしょうか。

 


 

 

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