20230618 東淀川教会宣教要旨「貧しい者・富める者」ルカ福音書16章

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本日の聖書箇所

ルカによる福音書16章 19-31節

「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。 
この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。 
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。


そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。


そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』


しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』


金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。 
私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』


しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 

宣教要旨「貧しい者・富める者」

 豊かな金持ちの余剰(おこぼれ)で飢えを凌いでいたラザロと、余物を与えていた富める者が死んで始祖アブラハムの前で出会うという物語。立場はひっくり返り、貧者は慰めと慈しみを受け、富者は苦しみを受け、完全に分割された天国と地獄(陰府)のような設定になっている。富者の、ラザロを自分のために使うことが叶わず、せめて生者である兄弟が陰府に来ないよう伝言を依頼するが、アブラハムは、たとえ死者が復活して訪れても、兄弟たち富者が悔い改めるはずがない、と拒絶する。
 ここに取り上げられているのは、貧者と富者の格差について、イエスが語ったお話の一断面だと思われます。
富者から貧者ラザロが理解できないように、貧者ラザロから富者は理解できない。生前であれ死後であれ、そこには超えられない大きな壁、深淵があると、イエスはアブラハムに語らせていると感じます。

 移動・遊牧生活から定住生活へ変わり、かつての部族民族同士の助け合い、信仰共同体意識も薄れた町や都市の生活では、所有する土地や私有財産や身分の格差が生まれ、何らかの相続財産や既得権や利権を持つ者と持たない者との格差は広がっていったのでしょう。雇われて奴隷になる者も、奴隷にすらなれない者も現れたのでしょう。

 現代社会もまた貧者と富者の格差がますます広がっている社会のようです。文明・歴史の最先端で、なぜどんどん格差が広がっているのか、難民はどうして生まれるのか、など切実な問いは続いています。貧者が富者を理解する、富者が貧者を理解することは、どうすれば可能となるのでしょうか。貧者と富者の格差は、どうすれば、どうなれば、少しづつでも縮まるのでしょうか。

 ピラミッド型に積んだシャンパングラスのてっぺんに注がれたシャンパンが溢れて下へ下へと流れていきます。てっぺんの富者が充分に富むことにより、貧者にも分前が行き渡る、という“トリクルダウン”という経済理論があります。富者からラザロが受けたわずかな恵みはトリクルダウンによるもの、ということになります。
 現在の世界の富裕層、トップ10%の裕福な家庭が所有する富は全体の75.6%を占めており、ボトム、底辺層、50%の貧しい家庭が所有する富は全体の2%に過ぎない、などの分析もネットで流れています。富者と貧者の格差が少しずつでも減っていく希望はないのでしょうか。

現在、NHKのEテレ、「100分で名著」シリーズで、ナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン」が取り上げられています。第一回第二回を見ました。明日月曜日が全4回のうちの第3回です。この2回で、それまで腑に落ちなかったことが腑に落ちた、そんな思いがありました。私なりに要約しますと、戦争の危機や、自然災害や、大きな事故など、人々にとっての大きなショックである出来事、街が壊れたことを利用し、巨大資本と国家は連携して、それまでの人々の暮らし、地域社会の歴史、経済活動、生産活動などが、一挙に変わるような政策が可能になる、というものでした。住民一人一人の意思や社会関係とは関係なく、いわば、災害を利用した、火事場泥棒のような、上からの新しい都市づくりが行われてきた、というのが「ショック・ドクトリン」の意味です。それを可能にした経済理論が米国ミルトン・クラインの“新自由主義”とのことです。

 個人的ですが、思い出したのが1995年1月17日の阪神淡路大震災でした。街全体が大きく壊れたのですが、それをチャンス、好機と捉えた行政側は、地域住民による再建計画には一切耳を貸さず、軒を並べた商店街中心の街や、貧しい人々の住宅などは完全にリセットされ、商店は巨大商業ビルに取り込まれ、そこに乗れなかった地域住民は散っていきました。あれもショック・ドクトリンだったと理解できます。

 富める者と貧しい者との間の隔たりが減っていく可能性や、相互理解の絶望的困難さと可能性について、マイナンバーカードによる個人情報がデジタル化されつつあるこのデジタル社会における今後の貧富格差について、イエスの言葉を聞きつつ考えたいのです。

 

先週の出来事

日銀・植田総裁「インフレ放置」宣言とのこと。これもミルトン・クラインの「市場不介入」理論なのでしょうか。

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