20230625 東淀川教会 宣教要旨「死はわかるはずもない ないのだから」ヨハネ福音書11章

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/ 本日の聖書箇所

ヨハネ福音書11章(ラザロ物語) 
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(1-5)
こうお話しになり、また、その後で言われた。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」(11)

そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。(14)
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた。(17)
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(23-26)
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。(32-34)
私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。(42-43)

/ 宣教要旨「死はわかるはずもない ないのだから」

 死にかけた者が回復したのでも、病人の癒やしでもなく、神の子としての人の尊厳を回復する「わざ」でもない。ラザロの復活は、命が失われた体、死体から人を生き返えらせた奇跡物語は共観福音書にもない、明確な意図があって創作された奇跡物語です。 

ヨハネ福音書が記された背景 小アジア、地中海周辺 サウジアラビア、エジプト北部のユダヤ人、ユダヤ教徒へキリスト教とは如何なる教えかを教え広めるために「一つの言葉」で書き記すことが重要(信仰の標準語 コイネー 後のラテン語)「初めに言があった」「言は神であった」イデー(ことば)による「○○とは何か」の知的探求が始まった。

 イエスをメシア、救世主とするキリスト教とはどんな教えか。それを広めるためには一つの言語出なければならなかった。その標準語で「神とは何か」「いのちとは何か」「死とは何か」「愛とは何か」「復活とは何か」「救い・神の国に入れる基準・入れない基準とは何か」を書き表した、出来上がっていた教義をもとに構成されたイエス伝、と言えます。イエスが「私を信じなさい。そうすれば救われる」などとは決して言うはずもないし、イエスが自分を救い主として信じさせるために、イエスが神さまにお願いして、ラザロを死体から呼び戻してもらった、など、あり得ないのです。

“いのちは神が与え神奪うもの。体は土に還り、神が与えたいのち(魂・霊)は神のもとに帰る。神ではないからそれ以上はワカラン”だけでは済まなくなった。神の知を得よう、神の知を超えようとする傲慢・バカになったりもする。

 「バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。人間にとって100%確かなことは、死ぬこと以外にには一つもないのです。何もどうせ「死ぬんだから」と投げやりになる必要もなく、恐る恐る生きる必要もない。ただ、常に覚悟を心にもって生きるということです。不確定な未来に軸足を置くのではなく、今という時間に軸足を置くこと。今日という日、目の前の小さな命に心を寄せることです。」養老孟司・バカの壁より 

いつかは「終わる」だろうことはなんとなくわかるが、いつどのようにその時が来るかわからんし、考えたくないし、終わりがくることを忘れていたいし、いられるのが、元気な人なのでしょう。

 貧困や病や、他者からの攻撃・迫害や、孤独や、生きづらさを抱え続けている人にとっては、苦しきことのみ多く、生きることの苦しみからも無価値に思える人生からも世から受ける惨めさも孤独からも自由になりたいが死ぬこともできないこともあります。
 自死へのためらいの底には、「いのちは自分のものではない」感覚と、「このいのちに価値も意味もない」と、他人や自分のいのちそのものを裁く「傲慢さ」、馬鹿馬鹿しさを感じとっているからだと「感じ」ます。

 “もともと人は神の子であり、神のいのちを吹き込まれただけだから、このいのちも神のもとに帰る”という古の感覚が失われ、知的な復活神話や神の国への合格・不合格神話、選別・選民神話などが神学的に、セクト毎にに積み上げられていったと感じます。

 ありもしない死の実体や、死後についてクヨクヨ考えるよりも、日々、目の前の隣人と、食べ物や労苦や不安を共有しながら、笑い飛ばしながら、支え合うことが「自分自身を愛するように隣人を愛せよ」という神の律法であり、イエスの教えだと信じます。

先週の出来事

マイ・ナンバーカードの返還運動を呼びかけている政治家の姿がありました。返還したら家畜の耳タグのように感じる「マイナンバー」がなくなるのなら良いと思いますし、そしてそれで個人が不利を被らなければもっと良いと思いますけれど。

 イエスの譬え話で「ラクダと針の穴」があります。
 為政者は「安全だ」「便利だ」「ラクだ」「駱駝も針の穴を通れる」と宣伝します。個人番号に紐付けされた膨大な情報(ラクダ)が、針の穴を通る小さなチップに詰め込まれていく現象を、今、イエスはどう語られるのか。心の耳を傾けたいのです。

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