20231001 東淀川教会 宣教要旨「つきあいきれない人とともに」イザヤ書53章8-12節 ルカ福音書23章36-43節
イザヤ書53章 8〜12節
不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ生ける者の地から絶たれたのだと。 (8)
彼は暴虐をなさず 口には偽りがなかったのに その墓は悪人どもと共にされ 富める者と共に葬られた。 (9)
主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。 (10)
彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う。 (11)
それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え 彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し 背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのは この人であった。 (12)
ルカによる福音書23章 36節
兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、 (36)
言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 (37)
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。 (38)
はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」 (39)
すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。 (40)
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 (41)
そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。 (42)
するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。 (43)
宣教要旨「つきあいきれない人とともに
イザヤ書53章に描かれた「多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのは この人であった」という「受難の僕(しもべ)」をイエスは引き受け続けられたと思います。その“執り成しのわざ”をご一緒に考えたいのです。ルカによる福音書における十字架の場面、イエスの他に死刑囚が二名。そのひとりが死を目前にしながらもイエスを周囲の兵士たちとともにおちょくり、バカにし、さげすみます。自分より「下」を確かめ、自分はそれよりも「上」、ましな存在であることを誇る、確認しようとする心は誰の心にもあり、極限状況であっても根深いのでしょう。彼の「暴走」をもう一人の死刑囚が“執り成し”し、イエスに対して、自分と神との間の“執り成し”をイエスに願い、イエスはこの二人に対して、十字架の上から執り成しを行った、と理解できます。
映画「沈黙 -サイレンス-」2017 米国作品 監督マーティン・スコセッシ 原作遠藤周作「沈黙」を観ました。感動しました。監督が差し出しているテーマもこの“執り成し”だと感じたのです。
調べた範囲で映画の背景について(間違いもあろうかと思います)
1540年 ローマ教皇パウルス3世は新興プロテスタント勢力に対抗して未開地にカトリックの教えを広め、改宗、植民地化を進め、得た土地はスペイン、ポルトガルに与えることを約束。伝道と侵略は表裏一体でした。
16世紀半ば。サビエルが日本人アンジローと共に鹿児島へ。日本文化の尊重。神様を太陽(大日)、教会をイエス寺で表現するなど、改宗を強制せず寛容を旨とする宣教姿勢。人は神の子であることを宣教。家畜や虫ケラのように扱われてきた下層の人々にイエスの教えが広まった。その後、仏教などを否定し、改宗を求める熱心な宣教師たちの活動、ポルトガル、スペイン、オランダなどの日本における勢力争いが起こった。1596年スペインの遭難上陸事件をきっかけに、上陸した船員からフランシスコ会の日本植民地化目的を伝え聞いた豊臣秀吉が激怒。一方で豊臣秀吉は、改宗、宣教にこだわらないプロテスタントのオランダと交易し武器などを入手。ポルトガル・スペインを警戒した秀吉はバテレン(司祭)追放令を出し、徳川家康も日本の朱印船がマカオでポルトガル船に襲われたことをきっかけに禁教令を出す。1638年 島原の乱での籠城者3万人に対し幕府軍12万人という数字が、「侵略者への警戒と弾圧」への決意を物語っています。
映画の中心人物はキリシタン弾圧により棄教し日本人となったフェレイラもと神父、ジョゼンペ・キアラ神父がモデルのロドリゴ神父との葛藤、及び、棄教、密告、懺悔を繰り返し、最後までロドリゴ神父に告白と赦しを求めるキチジローの三人が主な主人公と思われます。
『フェレイラ元神父』と「ロドリゴ神父」の問答
問答の背後に、転ばない信者が5名、すぐに死なないよう耳に穴を開けられ逆さ吊りされている。
『キリスト教に改宗しないと救われない? 人の魂を歪めるもの。拷問より残酷。』
『人のこころに干渉し変えようとしてはならない。私は日本で「我」を捨てる道を学んでいる。』『我々の独善的な押しつけ宗教はこの国に根付かない。』
「ザビエルの伝道で信者は増えたではないか」
『ザビエルは神を大日さま、多神教で教えたから増えた。日本人は自然の中にしか神を見ない。』
「死を恐れず信仰を貫き殉教している人がいる。」
『みんなパードレーであるおまえをイエスに重ねている。死んでいく自分自身をイエスに重ねてはいない。しかしおまえはゲッセマネのイエスと自分を重ねているのだろう』
『何もせず彼らのために祈るのか?それは彼らの更なる苦しみを長引かせるだけだ。』『踏み絵を踏まずに殺されるのを止めるなら、踏み絵を踏みなさい、転びなさい、と語りかけるのが、彼らを苦しみから救うことになる』
『目を背けず彼らを見つめて祈れ。おまえが祈っても神は沈黙したままだ。おまえはどうする?』『イエスのために私も死ぬ、という人々がいれば、イエスは棄教するだろう』『教会の教理、裁きより大切なことがある。主が愛する目の前の人を救え。』
『最もつらい愛の行為をするべきだ』『イエスはおっしゃっておられる。踏み絵を踏みなさい。十字架に唾をかけなさい。転びなさい。おまえの痛みは知っている、わたしは人々の痛みを分かつためにこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ。わたしはおまえとどこでもともにいる。』
キチジローは迫害に堪えられず、すぐに転び、密告によってお金を受け取りながら、また苦しくなって罪を告白し、赦しを求め、また繰り返し過ちを犯し続ける、もっとも愚かな、みっともない男として描かれています。ロドリゴ神父の“もうめんどうみきれん!”という表情もそれを表しています。しかし、ロドリゴ神父が棄教し転び、日本名を名乗り、幕府に協力している彼のところにキチジローが罪の告白を聞いてくれと訪れます。私はもう司祭ではないと断りますが、キチジローは私にとってあなたはパードレー、司祭なのだと追いすがります。そんなキチジロー(アンジロー)の告白を聞きながら、「生きて会いに来てくれてありがとう」と彼を抱きしめます。
イエスは死刑となるあの十字架上でも、赦しを求める者と神との「執り成し」を為し続けた、と理解するならば、監督はキチジローとイエスのとなりの死刑囚とを重ねていたと思われます。
スコセッシ監督は、「神の沈黙」を、米国の福音主義、原理主義的なキリスト者たちに投げかけていると思われます。フェレイラもと神父の「私はここで自我を捨てることを学んでいる」が、個人の自我・意識を中心とした「神との契約=信仰」の信仰理解を根底的に問い直していると思われます。
イエスたちが治療した人たちに対して「このことを誰にも言ってはいけない。言えばよけいにややこしい事態をひきおこすから」と何度も注意した場面があります。でも、癒やされた人たちはイエスたちのうわさを広め、結果、敵対者たちを刺激し、イエスたちへの攻撃は強まっていきました。中には嘘の証言をする人もいたことでしょう。イエスもずっと「つきあいきれない人々」と一緒だったし、付き合いを止めることはできなかったと思います。