20220116 東淀川教会宣教要旨 イザヤ書11:6-9 マタイ11:16-27「ことばと文字」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

イザヤ書11章 6-9節
狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み 小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食み その子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ 乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。私の聖なる山のどこにおいても 害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように 主を知ることが地を満たすからである。

マタイによる福音書11章 16〜17節
 今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている
子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに 踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに 悲しんでくれなかった。』

マタイによる福音書 11章 25〜27節
 その時、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、
父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに
子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。

宣教の要旨「ことばと文字」
 イザヤの“狼と子羊と共に宿り”という「お話し」は、知識・知恵を持つおとなに向けたものではなく、小さな子ども・童の心に向けられた語りです。与えられた地上の動植物世界と人間たちとの調和(平和)を表現していると思います。それは同時に、収奪や戦争を繰り返し調和を壊す王たちへの厳しい批判のメッセージでもありました。
 イエスの“笛を吹いたのに… 弔いの歌を歌ったのに…”とは、大人たちが使うそれぞれの言葉や文字が、それぞれ別々の正義を現し、敵対し、争いが続く中で、言葉以前の根源的な人の「喜び」を共感し合ったり、本質的な「悲しみ」を共有し合うこともできなくなった人間たち(神の子たち)の“闇の世界”を表現していると思います。
 人類は「移動」と「定住」(楽園)を繰り返しながら、共存と調和(平和)を求め続けて流浪していました。「都市」が発生し、排他的な土地占有(国家)が現れると、そこに住むためには、国家や民族の由来を表す“一つの神話”(宗教)と共に、一つの権威(王)と、一つの言語、一つの文字に従属することが強いられます。移動・遊牧の民は、一つの言葉や文字に従属することも文字によって記録を残すこともせず、ひたすら口伝で情報を共有し、歴史や文化を語り継ぎました。イエスは移動の民、「神と共に移動し歩む民」(イスラエル)であり、今日でいえば無政府主義(アナーキズム)的感覚だったのではと感じます。
 イエスの時代、イエスが語っていた①セム語系アラム語(シリア周辺の下層流浪民の言葉)、②ヘブライ語(古代イスラエルの国語)③ギリシャ文化から派生したギリシャ語の三つが主に使われていた言語でした。①は神々の口伝承、②は移動の民が選んだ(選ばれた)一つの神の言葉、③真理・神は唯一、1つの神・善悪という哲学を背景にしています。イエスの言葉や聖書を理解しようとすると、①②③のどの言語感覚を背景とした言葉かを探りながら読む必要があります。イエスは一つの言語、一つの理念からもっとも遠い存在だったと感じます。
 「ほんとうに大切なことば・メッセージは、子どもにもわかることばによってこそ伝わる」。
それをイエスが示していると感じられます。

先週の出来事
東京大学付近で受験生3人を切りつけた17歳の少年。「勉強がうまく行かず、事件を起こして死のうと思った」と供述している様子。とことん追い詰められる前に逃げ道はなかったのだろうか。逃げ道を指し示してくれる大人はいなかったのだろうか。

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