20221009 宣教要旨 「癒しのバプテスマ」イザヤ42:6-7 マタイ10:1 ヨハネ9:10-11

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本日の聖書箇所
イザヤ書42章 6-7節

主である私は義をもってあなたを呼び あなたの手を取り、あなたを守り あなたを民の契約とし、諸国民の光とした。目の見えない人の目を開き捕らわれ人を牢獄から闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。

マタイ福音書10章1節

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。

ヨハネによる福音書5章2-9節
エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
ヨハネによる福音書/ 09章 10-11節
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

宣教の要旨「癒しのバプテスマ」

主なる神が立ち上がり、「目の見えない人の目を開き、牢獄、闇に住む人を連れ出す」とイザヤを通して語り、イエスやその仲間も主のお手伝いを始めた、と理解するのが至極まっとうです。世に対いて、神による上からの世直しではなく、最後尾、しんがりからの改革であり、それに倣ったイエスたちの行為は、闇に置かれた人々の奴隷状態、呪縛状態からの解放であり、それが病んでいる人の治癒の結果として現れていると理解すべきなのでしょう。



 イエスが直接「洗礼・バプテスマ」を人々に施したと思われる箇所は聖書に見当たりません。
 イエスやイエスたちによって行われたのは、倒れている人に飲み水を持って駆けつけることであり、金もなく助けてくれる人もない人々への、汚れた体を拭く「清拭」であったり、ベトサダやシロアムの池での水浴であったり、薬草などを用いた民間療法だったり、一人ひとりの話を聞くカウンセリングだったり、主からのメッセージ・「福音」を伝えたりの行為であったと思われます。働き人が必要と12人を派遣したのもそのためだったと思われます。その様々なわざが、神の子たる個々人に向けられた、神の祝福(元気)を取り戻すわざであったと思われます。


 神の祝福を取り戻すための、水を用いた多くのわざ、治癒行為が、原始キリスト教団が成立したあと、イエスの行為、十字架の出来事全体を「イエスによるバプテスマ」として受け取る信仰が生まれ、キリスト教への入信儀礼としての洗礼・バプテスマへと変化したのでしょう。



 アジア諸国や日本でも古来より水浴(滝に打たれる)や全国各地の温泉療法や、水を用いた民間療法などはありました。

 イエスたちによって行われたそれらのわざが、安息日に行われたとか、神殿の祭司の了解をとらずに勝手に行われたことが、神殿を怒らせたのでしょう。今日の医療システムに置き換えてみれば、医師でもないのに、医師への相談もなく、治療行為をおこなった“違法行為・医師法違反”にあたると思われます。通貨は国家が定めるごとく、病気や治療は国家に委託された医師(神殿祭司)が診断し定めることにより国の秩序は保たれる、みたいなものなのでしょう。日本で、明治5年1872年,それまで民間医療の多くを担っていた修験者たちに対し、修験禁止令が出された背景と共通していると思われます。

先週の出来事

ロシア軍が占拠するウクライナ南部ザポリージャ原子力発電所で、露軍の砲撃が激化し、緊張が高まっているとのこと。敵を滅ぼし勝つためには何でも利用しようとするのが人間であり、戦争の本質なのでしょう。戦争を止められない人間には、神によって封印されていた原子力を使う資格もなく、主に返上すべきなのでしょう。

 

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