東淀川教会20181202礼拝 詩編32:1-4 マルコ5:1-9 司式・宣教 牧仕 金田恆孝

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旧約聖書 Psalms詩編34篇1-4節
 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
34-1 わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
34-2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34-3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
34-4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

新約聖書 Mark マルコ福音書5:1-9節
5-1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5-2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5-3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5-4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5-5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
5-6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5-7大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
5-8 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5-9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5-10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。

宣教題「大勢・みんなという悪魔」(宣教要旨)
 士師サムエルはサウルに油を注ぎ、王として任命したが、いったん権力の座についたとたん、その座を死守しようとする彼を見て、サウルを王にしてしまったことを悔い続けた。
ダビデが頭角を現し人々がダビデをリーダーとして求め始めたとき、サウルはダビデを殺そうと狙い続けた。
サウルを尊敬し仕え続けてきたダビデは、発狂し、サウルの元、ユダ国を去った。発狂は、嫌われ侮られ恐れられつつも、究極の自分自身の守り方だった。

 イエス一行が命からがらガリラヤ個を渡り到着した場所、ゲラサ人の地、発狂した者が鎖でつながれ、という記事があり、 “魑魅魍魎が跋扈する”ような、イメージを抱きがちだが、実はそうではなく、古代ギリシャ文明の栄えに浴し、当時としてはより文明化していた地域だったという記録がある。そうであったなら、より(正しい、健康な、普通の人々を自認しているおおぜいの人々の)生活空間を安全に保つための、「狂っている人」を鎖につなぐ設備が設けられていたのだろう。

 狂人がイエスに名を問われ、レギオン(古代ローマ帝国の陸軍における一部隊がレギオー(ラテン語)と呼ばれ、レギオンはローマ軍隊そのものを指していたようです。
ローマに刃向かえばこうなるぞ、という、鎖につなぎ続けるローマ側と、見せしめの刑罰を受けつつ、自殺せず、狂うことで自我を守り続ける囚人。 
ふと、住民や被害者たちが分断され互いに争うこととなった水俣病患者たちの中で、水俣病患者認定申請を自ら取り下げ、脱チッソ社会のための、自らの戦いを語ってくださった 緒方正人さんを思い出した。
鎖で繋がれ発狂した男は、社会の秩序、ローマの軍隊全体を敵に回しても、自分の霊(魂)を守り続けてきた人だったのではなかったかと想像してしまうのです。

◎先週の出来事 用事で近くの阪急西宮北口の駅駐輪場に自転車を止め、ふと気がついて見回すと、自転車に黒々と名前を書いているのは、見える範囲、数十台の中で私一人、という現実に気づいて「わたしって変人?」と悩み始めた。

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