20190310 東淀川教会礼拝 

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受難節第1主日礼拝 旧約聖書 創世記 新約聖書 マルコ福音書

旧約聖書 創世記22章10-14節
10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

新約聖書 マルコ福音書 8勝31-34節
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

聖書から聴く  主題 「己が十字架を負うとは」
 それは単に自分自身の死に場所や死に方を髪に任せる、あるいは、自分自身の棺桶を背負ってイエスに従う、というように理解することもできる。が、イエスの十字架は単なる生き様、死に様のことではあるまい。
アブラハムに対する、息子を捧げ物として差し出せ、という要求そのものが無茶振りと感じられるようなことだが、元来神によってのみ生かされているという信仰に生きるアブラハムにとっては、神の言葉で自分の命を差し出すことも、息子の命を差し出すことも、何も差はなかったと思われる。むしろ、「あなたの命を捧げなさい」と命じられた方がもっと喜びであったと思われる。

神によってこの世に生を受け、神によって御許に引き寄せられ、神の御顔を見ることができる。神の御名は誉むべきかな

ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)とその場所を名付けた、とありますが、まさに私にとって、全てが備えられている、という確信がはっきりあったあのでしょう。

この世に受けた、一瞬の瞬きのごとき人生が、いかに他の人々と比べて苦渋に満ちたものであったとしても、そのわけは、主の前に立つ、そのときすべてが明らかになるのでしょう。受け取ることができる喜びはとてつもなくおおきなものなのでしょう。
○先週の出来事(気になるニュース) 
フィリピンのドゥテルテ大統領が、、16世紀にスペインから押しつけあれたフィリピンという名前をマハルリカ(マレー語で自由)に変えたいとの意向を示している。でも変えるなら、多くの島々、村々方なっているのであり、村々を現すバランガイのほうがいいな、と外野からでも叫びたい。

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