20211107 Sunday Service 宣教題「東回りのキリスト教」担当 金田恆孝

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降誕前 第7主日礼拝 聖徒の日

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

詩編102編18-19節
主はすべてを失った者の祈りを顧み その祈りを軽んじませんでした。このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに創造される民は主を賛美するでしょう。
詩編116編 1ー2節
私は主を愛する。主は嘆き祈る私の声を聞き
私に耳を傾けてくださる。私は生きるかぎり呼び求めよう。
詩篇117編1ー2節
主を賛美せよ、すべての国よ。主をほめたたえよ、すべての民よ。
その慈しみは私たちに力強く 主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。
マタイによる福音書6章9-15節
だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように 天 におけるように地の上にも。私たちに日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください。』もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

ドチリナ(信仰告白)
てんにましますわれらが御おや 御名をたっとまれたまへ
御代きたりたまへ てんにをひて おぼしめすまま なるごとく
地にをひても あらせたまへ われらが日々の御やしなひを
今日われらに あたへたまへ われら人にゆるし申すごとく
われらがとがを ゆるしたまへ われを てんたさん(誘惑)に
放し玉ふ事なかれ われらをけう 悪よりのがしたまへ あめん

ガラサ(聖母マリア)
ガラサみちみち給ふマリヤに御れいをなし奉る 御あるじは御みとともに まします女人の中 にをひてわきて御果報いみしきなり 又 御胎内の御身にて ましまし
ゼズキリストは たっとくまします デウスの御はは サンタマリア いまもわれらがさいごにも われらあくにんのために 頼み上奉る アメン 

宣教の要旨「東回りのキリスト教」
聖徒の日礼拝は先人キリスト者を憶え彼らの御霊と共に祈る時。本日は「隠れキリシタン」と呼ばれ、隠されたキリスト者の御霊とともにこの礼拝を行いたい。
 1550年ザビエルの乗った東回り南蛮船で基督教が伝えられ九州南部から各地に広まり、30年後にはイエスズ会宣教師たちにより大分にコレジオ(カレッジ)、ノビシアード(修練院)、長崎と滋賀県近江にセミナリヨ(セミナーハウス)が開設するなど宣教活動によりキリスト教があっというまに広まったようです。記録により数字の違いはありますが、多い時は日本国内の神父100名ほど、キリスト者は75万人とも記されています(日本のキリスト者は現在1%未満100万人以下とのこと)。当時としては「すさまじい」広がりだったのでしょう。
 隠れる、隠される前の、南蛮船に乗ってやってきたキリスト教の初期資料はほとんど残されていませんが、「イエス寺」「大日さま」などに象徴される、万物創造の主、すべての人の親神なる神を讃える、文字を知らなかった人々にとってもわかりやすい、本日の詩篇に溢れている、明るい宣教だったことがうかがえます。

 わずか30年ほどの間に「神は誰一人漏らさず救おうとされている」の福音宣教のもと、キリスト者による貧民、難民救済活動が起こり、1582年には西欧の文化を学ぶため少年使節団をポルトガルに送り込むほど広まり、1583年長崎に三つのハンセン病病院が作られた。1590年に少年使節団が帰国し西洋文化とともに印刷技術が持ち込まれた。南蛮美術が広まった。
 民衆の心が耶蘇教に流れることに危機を感じた徳川幕府は1612年徳川旗本ディエゴ小笠原権之丞追放後、ハンセン病キリスト者をはじめキリシタンを次々処刑し、1614年の全国的な禁教令後、高山右近、内藤飛騨守忠俊、内藤ジュリア(女子修道会創立者)らも追放され、殺戮・殉教・潜伏が続き1805年天草崩れに至るまで殺されたのは25~30万人だっとも記されています。

 コレジオの教育目標に「我々は日本の西欧化を目指すのではなく日本精神と基督教精神の調和による新たな調和的な人間を完成しようとするものである」とある。“天の国こそわが御国”とする民が急激に増加したことは、西洋文明との交流、文化の発展、弱者救済、道徳倫理の涵養がどれほど良いものであっても、徳川による一極支配の国体そのものを揺るがせる危機と感じたのだろう。「キリシタンは国を奪う邪教だから、どんな非道残酷な処刑も当然」という印象を人々に植え付けることに徳川幕府は成功し、残虐な行為が繰り返された。「イエス寺」に象徴される、日本文化とキリスト教の調和を目指した東回りのキリスト教は、明治以後の西回りで入ってきたキリスト教、クリスチャンに受け継がれることはなかったし、神を男性格だけで理解することの弊害から生まれたマリア崇拝の信仰をプロテスタント諸教会は受け入れず、信仰の共有が試みられなかったゆえに多くの人々が“隠れ”のままとなったのだと思うのです。これからのキリスト者が埋もれ隠された文化を掘り起こすだけでなく、神学としても、蒔かれた種と育まれた信仰とを受け継ぎ、東回りのキリスト教と西回りのキリスト教が再度出会い、この八島のキリスト教史の再構築を計り、継承してくれることを願います。

先週の出来事
フランスでコロナ騒動後、衛生面からキスをする人は感染状況が落ち着いてからも避ける人が多く、これを機に伝統のキス文化が衰退する可能性が危惧されている。日本はすでにはじまっているが、これまで膨張してきた世界人口の激減、少子化が先進国からはじまる予感あり。

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