20220508 宣教要旨「死刑と戦争」申命記21章 ヨハネ福音書8章

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
出エジプト記 21章 17節
自分の父や母を呪う者は必ず死ななければならない。

申命記21章 18~21節
 ある人にかたくなで反抗する息子があり、父の言うことも
母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合、両親は彼を捕らえて、その町の門にいる長老たちのところに連れて行き、町の長老たちに、「私たちの息子は、かたくなで反抗し、私たちの言うことを聞かず、放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の人々は皆、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。イスラエルは皆、聞いて恐れるであろう。

ヨハネによる福音書8章 2~11節
 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を
起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身を
かがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、
年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、
イエス独りと、真ん中にいた女が残った。
 イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちは
どこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私も
あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を
犯してはいけない。」

宣教の要旨「死刑と戦争」
   モーセに導かれたのち、イスラエル12部族がパレスチナ、カナンの地に入っていったのは、今日でいうところの、支配前提の「侵略」であったのか、先住者との共存前提で、空いている土地への「入植」を目指したのかの区別は難しい。が、のちに国を失い、捕囚・奴隷状態になるまで、戦争が続いていたことは確かであり、戦時下においては国を守るための聖戦も、厳しい戒律と戒律違反に対する死刑も行われていた。申命記を読んでいると、なんて酷い、馬鹿げた戒律なんだろう、と聖書を閉じたくなってしまうほど。例えば、
モーセの十戒には民事的規定の最初に「父と母を敬え」がある。もともと家族・血縁者・同族単位で一つの群れとして移動していたイスラエルの民にとって、親の子に対する権威は絶対であり、子は群れを分かつまで親に仕える義務があった。家族の中で親子戦争が起こった場合、親と子は直接殺し合わず、家庭の内情を外に訴え、明らかにして皆でその子を殺すというきまりは、十戒の中の「殺すな」と矛盾することになるが、「違反したら殺せ」という命令形は、イスラエルの精神的な指針を顕し、律法が尊重されるべきことを表現しており、実際はこれが一族内部の分裂や戦争を防ぐ智恵・安全弁となっていたと思われる。
 他の民族や他国と争い、国家を守ることこそが仲間を守ることであり信仰を守る必須条件、との考え方の誤りは、バビロンの捕囚で学び、亡国、離散の民となっても信仰を守り続けたと思われる。

 現代日本。“相手を断罪し生命をも処分する”死刑と戦争指向が止まらない。日本も核武装すべき、というおおっぴらな声が聞こえてくる。日本は国連の戦争反対人権尊重の“人権規約”は事実上批准ratificationしているが、死刑廃止条約には批准していない。 (“2010年賛成109票EU諸国等” “反対41票日本米国中国等” “棄権35票韓国等”)。日本が固辞し続ける理由は、“国民の同意が得られない”ことを主な理由にしているが、実質は軍事同盟関係にある米国の意向と、明治から続く“天皇中心の国体護持”幻想(国家あっての民)にあると思われる。“切腹してお詫びすべし”という武士道の残滓も残っている。改心も償いも生きてこそ可能であり、法理論上は存在を抹殺する「死刑」は、罪に対する刑罰ではあり得ない。無条件で死刑が定められているのは刑法第81条「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」。第77条の内乱罪は死刑または無期禁錮であり国家への罪を裁くには死刑は欠かせないものとして残っている。2021年末の死刑確定囚は107名。平安時代、嵯峨天皇の頃、仏教思想の影響か、810-1156年(保元の乱)の凡そ350年間死刑はなくなっていた(遠島の刑)。日本は世界最初の死刑廃止国だった。

 第二次世界大戦の頃は、日本国内の精神障害者の数が極端に少なかった、という報告を読んだことがある(どなたか、資料をご教示ください)。国家全体が狂気、熱狂に包まれたとき、個人の狂気は目立たず、問題にならなくなるんだなと妙に感心した。

 ヨハネ福音書に戻ります。引き出された姦淫罪の女に対して社会の法秩序や治安を乱しているイエスがどう対応するかが試された。イエスは矛盾に満ちた姦淫罪について対応も議論もしなかったが、しつこく仕掛けられる「罠」に対して、「この中で、この女を有罪と断罪し、石を投げることもできる罪なき人は誰か」と逆に問いかけた。
 「あなたの中に、人殺しに加担する、狂気に加担する過ち・罪はないのか?」という私たち一人ひとりへの問いかけとして受け止めたい。
 
 日本で裁判員裁判が始まり、当初は死刑判決が減ると予測されたが、
死刑が言い渡されたのは26人と、民間人が参加することにより死刑判決が逆に「増えて」いる。このうち7人の死刑が確定、3人は無期懲役が確定している。このうち7人の死刑が確定、3人は無期懲役が確定している。
“死刑があるから世の中の治安が守られ犯罪も減る”という幻想が再生産されているからだろうか。

イエスの「7の70倍赦しなさい」マタイ182122節が響いてくる。たとえ赦せなくとも、裁けない、裁かない道を探ることが今日イエスから求められていると感じる。

先週の出来事
“親ガチャ”、“子ガチャ”(子は親を選べないし、親も子を選べない)などの言葉がTVや雑誌などから耳に飛び込んでくる。「あんたなんか産むんじゃなかった!」との母親の言葉をきっかけに自室に籠もるようになった子の手記に触れた。やるせないガチャガチャという音が耳に残る。

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