20220814 東淀川教会礼拝宣教要旨「牧者から民を救う神」エゼキエル書34章1ー10節

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
エゼキエル書34章1〜10節

 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。
 災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。あなたがたは脂肪を食べ、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。あなたがたは弱ったものを力づけず、病めるものを癒やさず、傷ついたものを包まず、散らされたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで厳しく支配した。
 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。私の群れは、すべての山々、すべての高い丘の上でさまよい、地の全面に散らされた。尋ね求める者も、捜し求める者もいない。それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
 私は生きている――主なる神の仰せ。私の群れは牧者がいないため、略奪に遭い、あらゆる野の獣の餌食となっているというのに、私の牧者は群れを尋ね求めもしない。牧者はわが身を養うが、私の群れを養わない。それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。
 私は牧者に立ち向かう。私は彼らの手から私の羊の群れを尋ね求め、彼らに群れを養わせない。牧者は二度とわが身を養えなくなる。私は彼らの口から私の群れを救い出す。私の群れが彼らの餌食となることはない。

マタイによる福音書9章 36節

また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。


マタイによる福音書10章 01節

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。

宣教の要旨「牧者から民を救う神」
預言者としてのエゼキエルは、ユダ王国が滅び捕囚された中にいた人でした。同じ捕囚・奴隷の民に対し「神の言葉を語れ」との神の召命を幻の中で受け、語り出しました。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(エゼキエル書2:3-4)

 ダビデ、ソロモン王の頃、権力と富を手に入れ傲慢となったイスラエルの民は内部分裂し、隣国との戦争を繰り返し、終にはバビロンの奴隷、捕囚の民となった。それでも悔い改めようともしない、弱い者たちを守ろうともしないイスラエルの指導者(牧者)たちに向かい、神はエゼキエルの口を用いて「牧者から民を救う」と宣言する。

「私は牧者に立ち向かう。私は彼らの手から私の羊の群れを尋ね求め、彼らに群れを養わせない。」

これは「ボクシ」と呼ばれる私にはとても耳の痛い言葉です。
「牧者」とは,現代なら「神父・牧師」や「宗教者」「学者」「教師」だろうか。民に仕えるべき「政治家」のことだろうか。
 日本基督教団もその始まりは「戦争協力」翼賛体制だったし、今も組織の根本をリセットできないまま同じ名称を名乗り続けている。戦時下において、「弱り切った民の側にたつ」役割を果たさなかった。今も本質は変わらない。エゼキエルを通して発せられたメッセージは今も日本基督教団に向けられている。
  現代日本社会は、“失われた30年”を経過し、バビロン捕囚前の、武力による解決を放棄し なかったエルサレム神殿中心のユダヤ国家に似ているように思われます。

 イエスの時代。イエスが憐れんだ、という群衆は、軍事力にも、律法(法律)にも、福祉政策にも、貨幣経済にも守られることのない難民の姿だったのではないでしょうか。

 社会上層部の人々は「脂肪を食べ羊毛をまとい、肥えた動物を屠ってお腹を満たしている」が、「弱った者を支えず、病んでいる人を癒やさず、傷ついた人を包まず、奪われ失ったものを一緒に探し求めず」逆に力ずくで支配し続けた。


 イエスが仲間を募り、彼らを癒やす権能を授け、一緒に働いた具体的な“奇跡”の内容とは、現代風に言い換えれば、「社会の中で弱った人々を支え病んでいる人々を癒やし傷ついた人々を回復のために包み奪われたり失ったものを一緒に探したり取り戻したり」することだったのではないか。

 イエスによる奇跡のわざがなかったとは思いません。が、「奇跡」一つ一つが「スーパースター・イエス」をそのまま表しているのではなく、エゼキエルが語る行いの総体を指し示していると思うのです。イエスや、イエスの仲間たちによる、それらのひとつひとつのわざが、福音書記事によるイエスのわざ「歩けない人が立ち上がった」「目の見えない人の眼が開いた」「ものを言えない人が語り出した」などの“象徴的な奇蹟物語”として書き記されたと思うのです。

先週の出来事 
統一協会との関わりを曖昧にしたまま新内閣が発足しました。このままでは「勝共運動の何が悪い!」と開き直りそうな雰囲気すらあります。戦中戦後の「赤狩り」は表舞台からは消えたかに見えますが、裏舞台ではいまだに続いていると思われます。その顕著な証明が片山さつき議員のツィッターなのでしょう。

 

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